障害者は贅沢でもあり、贅沢でもない
障害者がラブホテルにいくのが贅沢か。
なんていう記事をさっきみかけたのですが、私はそれは贅沢ではないと思います。
が、贅沢かどうか、が問題ではない。
この記事は、続けて、子育てしている主婦? 母親が、多大な協力の下で、子どもを預けたりして、自分の楽しみ
を実行することも贅沢なのか、という方向に向かっていきますが、それは私は贅沢だと思う。
が、もっと根本的な問題として、贅沢かどうか、ではない。
それがあたり前だから、私は子育てしているんだから当然だ、という雰囲気を醸しだしてそれをしていることが問題。
そこで、ちょっと、「申し訳ないけれど、協力していただいたから、私は好きなことができています」という雰囲気を醸しだしていれば、それはまったく贅沢でもないし、当然のことと思います。
だから、贅沢かどうか、という問題ではなくて、その恩恵(を被っていることは最低限間違いないので)をどのように受け止めて、自由を謳歌しているのかどうかが問題だ、と私は思うわけです。
最近は私のような考え方は少数派になってしまいましたが、年金制度も同じ。
今、年金を受給されている方々も、それが当然と思って欲しくない。同時に、今、年金を払っている世代も、自分がもらうときになったら、払った分が戻ってきて当然と思ってで欲しくない(ちなみに、平成22年時点では、平均寿命まで生きていれば、元はとれる程度の支給がありますし。そもそも私見としては、自分のためにお金を出しているのではなく、年金がなければ生活できない人を社会全体で扶養しているもの、というのが年金だと思うので、元をとれるかどうかは問題ではないし、一定の所得や収入がある人は、年金受給制限があって(制度的には)当然だと思います)。
年金を例にあげましたけれど、もらうものが何らかの形であるときに、それを当然だ、権利だ、と思うことはどうも好きになれない、というのが、ここでいいたいことです。
さらに話を元に戻しますと、いただいて感謝しています、という雰囲気の子育て世代と、もっとよこせ、私は将来の税収等のために貴重な子育てをして社会に貢献しているんだ、という雰囲気の方と。後者は正直蹴飛ばしたくなります。だいたい、お前の育てている子どもが、将来社会の役にたつとは限らないだろう! までいうと、きっと人権侵害だ、といわれてしまうと思いますが。
で、冒頭の話なのですが、障害者も同じです。そもそも、母の障害手帳の交付の認定を経て、そもそも障害ってなんだろう‥という疑問もあります。
くだらない、行政の都合でつくった形式的な基準にひっかかるかどうかで、恩恵を受けられるかどうかが決まってくる。
でも、障害者かどうかの基準なんて、実に形式的で、実態をみていないくだらないものです。
ADLとかQOLという言葉がこれだけ定着してくれば(これらは主に介護の世界の言葉ですが)、現在障害と認められるものでも、QOLがそれほど低くないものものあるし、その逆もたくさんあるように思います。
だから、たまたま現在の基準にマッチして、支援をえられる方は、自分は偶然で幸せで、感謝します、という気持ちはもって欲しいし、ましてや、もらってとうぜんとは絶対に思ってほしくない。
そうだとすると、贅沢かどうか、ということは、贅沢な基準にめぐまれている、ということまではいえるかもしれません。
もし、本当に「心」の豊かさ、幸せに目を向けると、どんなに重い障害があっても、環境の結果、幸せを感じられる人は幸せだし、支援の必要は低いのかもしれない。
でも、現在の基準では障害の程度は低いと評価される場合でも、環境が制限されていて、心が不幸せな場合は、もっと支援が必要なのかもしれない。
と、結論がでない議論であることは間違いなく、よって、贅沢かどうか、ということではなく、(あえていえば)実質=物質的な幸福ではなく、いかにして心理的な幸福を制度的にカバーしてあげられるか、ということが本質のような気がします。
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