2011年 6月 17日 (金)
たあいもないフレーズだからこそ
歌謡曲とか流行り歌。それは文化的にはしばしば低く評価されますが、ときどき歴史に残るべきものも生まれます。
それは、大勢の話で、個人的な信条とか、個人的な境遇にぴったりマッチして、個人的に残るものは、もっと高い確率であるものではないかと思います。
別に特別評価する方でもなく、特別好きなわけでもないのに、何かを考えるときに、妙にこの歌の歌詞が思い浮かぶことがおおい‥。
そんなレベルのものもあると思いますが、私が一つあげると、旧日記にも引用したことがある、「時刻表」(中島みゆき)のワンフレーズ。
「誰が悪いのかを言いあてて どうすればいいかを書きたてて
評論家やカウンセラーは米を買う」
からはじまり、この段落? の最後は、
「見えることとそれができることは別ものだよと米を買う」
と結ばれます。
この、評論家やカウンセラーにはなりたくないな、というのは、いつも思うこと。
あくまでも、自省のきっかけとしてなのですが、今回の震災に関して、その被害の大きさ、原因究明、これからの課題‥すべて、評論家も、ネット評論家も、個々人も(含む私自身)、すでにこの歌詞の評論家やカウンセラーに成り下がっていないだろうか。
なにか空虚な。
宇宙の彼方から地球のごく一部にすぎない東日本について、上段から、他人事として語っているように思えてなりません。
そんなにいい加減な気持で本当に復興はできるのでしょうか。
復興らしきことはできても、臭いものに蓋をした復興になってしまうのではないか。
だからなにをするべき、というのはわかりません。
真摯に現実と、自分のおかれている状況と環境を認識して、(ここが大事)受け入れて。不安が大きい分、受け入れられず、否定したいという気持から、宇宙の彼方からの議論、意見表明をしていやしないだろうか。
と、最近思うのです。
今、だれがいいとか悪いとか書き立ててもなにも生まれません。
どうすればいいのか、を考える前にできることを一つ一つ積み重ねるべきではないか。
迷える小羊は、口先だけの俄か評論家(がおおい気がする)ほど賢いものはいないと思って(逃げて)安心するのではなく。
ただついていくことが自らの本当の選択なのかをしっかり考える機会を作って。
そんなことが大事ではないでしょうか。
盲目的についていっても(それが国家についていくのだとしても)、いえることとできることは別だ、と、小羊には米はこないでしょうから。
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