見えないものと不合理なものと
知的資産経営支援の第一人者・こうたんさんのfacebookのウォールの書き込みの一つをみて、ふと、このことを夕飯後に考えていました。
見えないもの=不合理 と、考えてきたきらいはないだろうか。
ここからスタートして、風呂にはいりながらも次のように展開して考えていました。
まず、「不合理」は一つであって、見えないものはネガティブな印象につながれ易い。
見えないは、視覚的に見えないだけではなくて、理解できない、という意味の「みえない」もここでは同じだと考えます。そして、目に見えないし、理解不能でもあると、それはときには怖いものになったり、正面から否定して、合理的・非合理的のベクトル(軸)ではなく、好き嫌いの軸の「嫌い」に押しやって拒絶してしまっているように思います。
(典型がお化け? 見えないし、わからないし。もし、科学(が万能とは思わないが)でお化けが解明できれば、誰も怖がらないし、仮に怖いものと分析されたら、その対策を考えるだろうし、少なくとも毛嫌いはされないでしょう)。
他方、見えないものをなんでも完璧に「見える化」できると考えることは、人間の論理性、知識、その他を過剰評価しすぎるようにも思います。20世紀初等の物理学の失敗がその典型で、はるか彼方の小さな雲を払いのければ、われわれ人間は自然をすべて把握できる、と考えた人類は、それが果てしない大きな雲の端に過ぎないことをすぐに知らされることになった、とたとえられます(その雲は、アインシュタインの相対性理論なわけですが)。でも、できるできないはともかく、研究の原動力として、究極の数値化をはじめとする完全な論理で人の営みも説明できる、という気概は、自然科学の研究者には求められているのかもしれません。
少なくとも絶対的な、不変・不偏的な数値化ではなく、今、そして、この場面でのみ通用する数値化程度が目指すべきもので、これですら相当にむずかしい作業になるでしょう。むしろ、主観が混在することを受け入れて、どのような主観が含まれているのかを明示する方がはるかに実践的です。このようなアプローチは、いうまでもなく19世紀以降の社会科学の方向性。
もともと私は理系・文系という分類や、分類しようとする行為は好きではありません。一つの学問で統計的なアプローチも、哲学的なそれも、経験から帰納的に分析するそれも…と、いろいろあるものだと思うし、多方面の角度、必要性、立場から一つを研究するからこそ、学問的になるように思います(これは、エールリッヒの受け売りかなー。学生時代そうとう影響を受けたので)。かりにその分類をするとしても、何百年のスパンで、ときには対極寄りの手法がもてはやされ、それに対するアンチテーゼがうまれ…対極から最遠の方法論がとられるようになり…という振り子を繰り替えしているとみるのが、史実ではないでしょうか。
1990年代の北欧発といわれる知的資産経営も、それが日本に紹介され、実践される時期とかさなって、西洋的な、特にアメリカ的な経営への批判がもちあがり、最近は日本的経営への「ゆりもどし」の時期にあるように感じています。ただ、芸術分野でも学問分野でも「新古典派」なんてコトバが出てくるように、そのまま以前の日本的経営に戻ることを意味していません。アメリカ的経営を体験した上で、現代的課題へのアプローチとして、新しい日本的経営が意識されてきている、と、考えるべきではないでしょうか。
そのようなことはこの1−2年感じていましたが、それを確信したのは、昨年秋に『日本企業にいま大切なこと』(野中郁次郎・遠藤功共著)を読んだときでした。この本自体は、申し訳ないが、決して学術的でもなく、評論家の雑談のようなレベルのものだと思いますが(だから読みやすかった)、お二人とも、上記の方向を確信して語っていることを感じました。
すごく大雑把で、大雑把すぎて不正確になるのは否めませんが、見えないものを見えるようにする。それは、客観性をある程度確保しながら。数値化して見えるものにだけ力を注いできたのが西洋的なそれで、数値化できない(しづらい)、この日記の冒頭でいえば、だから不合理なものを「見える化」して活用していこう。そんな風に知的資産経営にはつながっていくように思います(ただし、ここでは西洋的か日本的かは、別の軸であって、直接関係ないことは間違いないと思います)。
機械的に見えなかったものを見えるようにするならば、おそらくは近い将来コンピュータソフトウェアが解決するでしょう。でも、そのとき、その場面で、目的に応じて、単に見えるだけではなく、わかりやすく見えるようにする(それが「魅える化」)という人の主観がはいるからこそ、知的資産経営は支援者がいるべきではないか、とも思います。
そういえば、ここでいう客観性は、いわゆる自然科学的な客観性ではなく、反論可能性がなくなるという意味で十分だと思いますし、上記のように、不偏・不変である必要は不要だと思います。わかりやすさと監査の可能性を確保できるレベルでよい、と、換言してもよいかもしれません。逆にそれ以上の客観性を求めるために、わかりやすさを犠牲にしたり、数値になっていない実態を切り捨ててしまう(これによって、監査もできなくなる)よりも、よほど合目的的であり、合理的と考えるべきでしょう。
前述のとおり、夕食後にふと考えたことなのでまとまりもなく、結論もありませんが、後に同様なことを思い出して考えてみるときに、今、どんなことを考えていたのか、という忘備録として書いてみました。
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