2012年 1月 30日 (月)
リヒトクライス演奏会への2度目の参加にあたって(2)
(1)としたので、(2)がないと…というわけで。
決して解釈ではなくて、関連する想い出話です。
「風が」
この歌をはじめてしっかりと(聞き流してではなく)聞いたときの感想は、「なぜ組曲の最初で寂しい歌なんだろうか」でした。何しろ、いきなり、「櫻の花びらを散らす。春がそれだけ弱まっていく」ですから。組曲全体のはじまりということは田先生も解説の中で書かれていて、それならば「風が櫻の花びらを開く。」くらいで、蕾が開き、明るくはじまるのも一つではないか、というのが、私の感性です。
それとあわせて、組曲・心の四季ですが、この1曲で四季すべてが含まれているという印象を強くもちました。それだけに逆に、正直なところ、組曲としてのつながりとか、まとまりはどこにあるのだろうか。
ずっとこの点は気になっていましたが、今回リストクライスの練習に参加して、春の詩の中で、先生が「弱まっただけでいいの?」という問いかけをなさいました。そのときに思い出したのが、昨年のリヒトクライスの練習での「みずすまし」の練習の「だが、私たちにも命はないか」の部分。そうか、心の四季だから、蕾が開くのではなく、櫻が散ってよいのか。という問いかけではじまるのか。そう考えると、全体へのイントロとしてもうまく納まるような気がします。
そんなことを今は考えています。
ちなみに、組曲としてのまとまりがうんぬんは、最後の「真昼の星」の思い入れ(雑談)で…。
「みずすまし」
みずすましが水面でスイスイと動いている姿は、今や都会の空で流れ星をみるのよりもむずかしくなっている気がします。
ちょっとしたつまらない知識がありまして、みずすましは、確か幼虫は水中ですごしているはず…。(という記憶を確かめるためにググったら、Wikipediaにそのとおり書いてありました)。
そんなつまらない知識があったので、みずすましが水に潜る行為を、吉野さんのようにすなおに解釈できない部分がありました。
ただ、いくつかある好きな聖書のことばを同時に思い出します。「誰でも幼子のように神の国を受け入れるものでなければ、そこにはいることは決してできない」。子どもも日常の中ですごしているわけですが、神の国を受け入れていて、水は優しくつつんでくれている。死した後に、ふたたび幼子のような気持ちになって、再び水はやさしく包んでくれる、ということなのでしょうか。
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