ノーマライゼーションはハードではない
ノーマライゼーションというわかりづらいことば。
お決まりのWikipediaで調べてみると、冒頭に「歴史的に障害者施策は施設の建設から始まることが多く」などというくだりもあります。
数年前の、ホテルチェーンで、バリアフリー対応の部屋を許可取得後に改造していた事件が明るみになり、批判されたことは記憶に新しいのですが、私は、そもそもハードでのみ許可基準を設けることは疑問を感じています。たとえば、バリアフリー対応の部屋が一つもなくても、それを必要とする方が宿泊するときには、確実に介助できる人的な支援体制を構築している、というのも、基準としては十分にありえるのではないでしょうか。いや、むしろ、たとえば、バリアフリー対応の建築物は、「典型的な」障害者には適していても、典型から少しはずれる場合にはかえって不便だったり、使い物にならない場合があります。それよりも、人的支援体制を万全としている方が優れているかもしれません。
そもそも極論すれば、障害者と障害者でない中間というのは世の中には大勢いるはずです。手帳をもっているかどうか、ということは関係ありません(だいぶ前に母のQOLの問題で、旧日記ブログにも書きましたが、複数のごくわずかな衰えの集大成であった当時の母は、一つ一つの衰えは障害の対象にはなりません。が、それがトータルでくると、現実的には相当な生活レベルの低下を引き起こします)。そういう中間の方がみえたときには、バリアフリーのハード的な対応はほとんど役にたたない可能性があります。
ノーマライゼーションをハードで徹底しようとすると限界があるし、それは、過度に健常者に負担を強いることになることも十分に考えられます。
たとえば、最近の駅の設計で常々感じることなのですが、こんな例はいかがでしょう。
テーマとしては、外出がかろうじて可能な歩行困難な方が、駅から20分離れた施設に移動する、を考えます。
これは、ごく当たり前にあることだと思います。
が、実際に駅におりてみると…大きなターミナル駅では、たしかにハードとしてのエスカレーターやエレベーターは、ホームで充実してきました。そして、私がこの日記でダラダラと文句をいったからではないと思いますが、最近は、東京駅も新幹線をおりると、「エスカレーターは5号車付近、エレベーターは7号車付近にございます」というアナウンスをするようになりました。
ただ、根本的に対策になっていないのは、身体障害者手帳を提示して指定券を購入して、かつ、比較的指定席があいているときでも、これがまったく考慮されません。障害手帳を提示、あるいは降車駅でエレベーターやエスカレーターに近いことを希望したお客がいるときに、どの車両に乗るのがもっとも適切なのかを即座に案内できる体制は、どうもみどりの窓口はできていないようです。なによりも、JRを乗り継ぐときに、たとえば、すべて5号車付近にのれば、どの駅でもエスカレーターやエレベーターが近くにある、というような配慮がまったくないのが現状です。ましてや、JRから地下鉄や私鉄にのりかえるとなれば、とんでもないことになります。せめて、階段なしで乗換できるルート、というような駅の構造の共有化は、JR内はもちろん、関東圏なら関東圏の鉄道会社同士で共有して、少しでも次の改築の際には、移動距離を減らす工夫はしていただきたいな、と思うところです。
さて、さきほどのテーマに戻りますが、現在の駅の設計(という表現にします。東京駅含め、最近改装したり、コンコースやタクシー乗り場などの場所を変更した複数の駅から感じることなので)は、もっとも出口に近いところにバス乗り場、次に普通車、そして、もっとも遠くにタクシー乗り場を配置するようになっているように思います。
バスは、たしかに優れた公共交通機関ですし、発達して欲しいと思いますが、実は、バスにのる方は、自力・単独で歩行がある程度できる方です。テーマのようにかろうじて外出が可能なレベルになると、もはやバスは移動手段としては第二線に下がってきます。よりいっそう、移動に不自由な人を対象に駅の乗換の設計をするならば、タクシー→バス→自家用車の乗降場とするべきではないでしょうか。
が、ここからは、人数の問題もあります。バリアフリー、ノーマライゼーションの精神も、最後はここで必要度とその必要度ごとの人数(利用率)の問題はかならず出てきます。その場合、高度に必要だけれども、利用率が低い人を切り捨てることは、本当のノーマライゼーションでしょうか。
すべて、ハードで解決しようとしているからおきることです。利用率を考えると、タクシー→バス乗り場とすることは、利用率と必要度を乗じたもっとも高得点をとる「層」には、むしろ不便になってしまうことでしょう。しかし、ここに、ソフト、あるいは人的支援をいれたらどうでしょうか。
現在の駅の設計でも、気楽に「かろうじて外出できるレベル」の人(高度に必要な人)が車椅子を利用できたり、介助サービスを受けられるように、人的支援をおく(おくだけでなく、アピールすることも大事です)ことで、かなりのところまでカバーできるはずです。JRのエレベーターやエスカレーターの位置をアナウンスするようになったことは大きな進歩ですが、実は、母の付き添いで東京にいきますと、母が新幹線からおりる前にこのアナウンスはされてしまっています。せっかくよいアナウンスをしてくれているのに、このようなアナウンスを本当に必要としている人は、移動が遅く、電車から出るのが遅い、という事実に気づいていないのか、他の電車のアナウンスの都合、それを切り捨てているのかはわかりませんが、便利さを残念ながら大きく下げてしまっています(さらにいうと、非常に早口なために、おそらくは、加齢による難聴がともなっている場合には聞き取れないと思われます)。大きな前進だし、健常者にとってもこのアナウンスは有益ですからこれは継続して欲しいと思いますが、JR(にかぎりません。私がよく使うという意味での代表として)には、日記でも再三いっているように、人をふやしましょうよ…。ホームで歩行困難な方、こまっている方を探して声を積極的にかけられる駅員さんがいるだけで、これらは解決します。しかし現状は、目の衰えある中ではもちろんのこと、付き添いの私ですら、駅員さんを発見するのがほとんど奇跡的と思えるほど、ホームにはいらっしゃいませんから…。
そういう発想から冒頭のとおり、ハードだけに許可・認可基準をおくことはおかしいと私は思っているわけです。
最後に、関連するけれど少し違う話題として、おそらく、震災の後の節電から、電光掲示板の照度を落としているとおもわれます。現在私はメガネをして0.6くらいの視力ですが、たかだか高崎駅(東京など、大きなターミナル駅と比較して大きくないという意味で)でも、階段を昇ってホームに出たもっとも近い電光掲示板をよむことができません。私はもちろん歩行には不便はないですから、いったん掲示板に近づいてみることができますが、もう少し高齢の方、逆に子ども連れの方が同じ状況だったらどうでしょうか。どうせ見えないならば、上記の論理からいけば、節電の名の下に電光掲示板を完全に消して、ホームにより多くの人を配置するか、必要なのだから、ここはLEDにかえることを含めて、照度を元に戻すなど。
今でも病院や公共施設までが照度を落としていますが、あの明るさ不足のために単独で歩行できなくなる方は少なからずいるはずです。これも含めて、公共の場のあり方は考えていただきたいとおもうのです。
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