私のロンドン五輪雑感
ロンドン五輪がおわって、総括がなされ、ネットでもいろいろな感想を見ることができますが、せめてそのくらいの流行にのるぞ、というわけではありませんが、まだ前の日記の「8月のまつり」のことも書いていないのに、私にとっての雑感です。
実は今年はついに、オリンピックを「能動的に」一つもみませんでした。
結果は、ネットにアクセスすればいやでも目に入りますから、注目されている協議や、意外な結果だったそれは「情報として」入ってきますから、「受け身」では(それでも見ていないな‥)聞いたり、読んだりはしていました。
そんな接し方をオリンピックとしたのは、たぶん、私の中に2つの流れがあって、
1)無意識なのか意識的なのか、オリンピックに接している余裕はないとどこかで思って拒絶するという流れ。
2)オリンピックがなんとなく好きではないという流れ。
だと思います。
もともとは、4年に1度が楽しみだったのはたしかで、スポーツ観戦はテレビなどのメディアを通じてでも、現場にいっての応援でも、むしろ好きな方でした。
一つ目の方は、だから、ここできっかけがあって注目し始めると、他がおろそかになってしまう、という自己防衛? みたいなものがあったのではないかと思います。
二つ目の方は、自分で自分の大きな意識の変化を感じたオリンピックがありまして、それはロスオリンピック。あの中継をみていて、「なにか違う」と思ったのは、鮮明におぼえています。
「違う」は、自分なりに思い描いているオリンピックへのあこがれや意識、考え方があり、それと違っている、という意味ですが、しかし、そもそもそのようなあこがれ、意識、考え方をなぜもったのか、ということはわかりません。でも、自分以外に賛成してもらえるもらえない等、そういうこと一切関係なく、「違う」と思って、そのとき以来、この行事に関心をもたなくなっていったのは明らかです。
そして、報道ってもともとあらゆる場面で好きではないのですが、それが過剰になっていることは、たぶん、私だけではなく感じられ、ときには指摘されていることかと思います。上記のきっかけとなったロスのあと、「違い」が狭まるのか拡がるのか、という意味では、報道過剰が一つの原因となって、ますます「違い」は拡がっていった気がします。
また、夏と冬がわかれたのも、私にとっては、違和感をおぼえるきっかけになりました。これはたぶん、ロスがきっかけで、「違う」と感じたところに近い理由があるのかな、と自分なりに考えています。
さて、その「違い」を感じるのはなぜなのか、今でも自分でもよくわかっていません。だから、「違い」という抽象的な表現をここではしています。
あえて要素になりそうなことをあげると、よく指摘されるところの「商業主義」と「結果主義」は含まれていることはたしかだと思います。
今年は、さらにいろいろな事情があって、テレビというニュースソースによる情報はゼロでした(唯一接したのは病院の待合室で、卓球女子の準決勝の録画を放映していたくらいでしょうか)。冒頭に書いた、「受け身」のソースはネットと新聞のみというわけです。あえてくわえれば、あとは街中を歩いていての、オリンピックに注目している方々の雑談が耳に入ってくることくらいでしょうか。
その、テレビというソースなしで、受け身に得た(欲したのではなくて、勝手に目や耳に入ってくるという意味)だけの情報のロンドンオリンピックの印象は、実は、4年後は見てみたいな、と思う部分もいくつか。しかし、あいかわらず「違う」と感じる部分もいくつか。
「見てみたいな」は、選手以外の関係者が、この行事を楽しんでいるのかな、と見える部分があったのですが、それを一緒に楽しんでみたい、という気持ちをもてたことです。いくつかそう思う部分はありましたが、ネットでは話題になったパラリンピックのPVはその典型。関係者がこういう「作品」を作ることを楽しんでいるというのは、私にとっては「違わない」なと感じる代表的な出来事でした。
そういうと、同じ関係者が「楽しんでいる」といえそうなロスがきっかけで、なぜ「違い」を感じるようになったのか、と思われる方もあるかもしれません。ロスの開会式など、周りが楽しんでいる典型ともいえそうです。でも、もしかすると、そこは私のアメリカ嫌い、アメリカへの偏見も含まれるかもしれませんが、「自分たちだけで楽しんでいる」のか、あくまでも「選手(あるいは競技やその行事そのものがまずありきで、その枠の中で楽しんでいるのか」の違いを(これまた)なんとなく感じて、ロスの楽しみは「違う」けれど、ロンドンの楽しみは「違わない部分もあるな」とわかれるのです。
あいかわらず「違う」と感じた代表的な出来事は、正確な数はわかりませんが、日本がメダル獲得数が新記録、でしたか‥? まぁ、とにかく沢山とったことが、総括として報道されていること。総括としてメダルの数が一番注目されることが「違う」と感じるあたり、やはり「結果主義」が嫌なのかもしれません。でも、競技だから結果を気にするのは当然、という気持ちもあります。だから結果の扱われ方かもしれません。
このような総括はメダルだけだと、4位の人はどうなるのかな、とか、順位としては入賞もしなかったけれど、日本新記録、あるいは自己新記録を更新して敗退した選手たちはなにも評価されないのだろうか。もっといえば強化費や、子供の頃からの奨学金などを沢山受けて練習を積んだ結果よりも、自費で、本業をしっかりと別にもっている中でトレーニングを積んで出場した方とを比較すれば、私は後者の選手にこそ注目したいと思います。なんてことがどうしても先行してしまうので、ここは「違う」というよりは「好きになれない」ところではないかと感じて、考えて? 思う? ‥どれが妥当でしょう。こういう自分の気持ちを表現する日本語ってむずかしいところですが、「そういうことを思う、考える」自分が現在です。
さらにちょっと補足すると、たとえば報道としてはつまらないかもしれませんが、競技に臨む選手には上下はありません。同じ敗退でも北島選手のコメントは有名になりましたが、ほとんど注目されていない選手や競技で敗退した方のコメントはどれだけ話題になったのか。同じように紹介されてこそ、私にとっては「違わない」あり方のような気がします。
同時に、注目されない競技の選手の方が、選手としては純粋に無垢にこの行事を楽しめるという利点もあるのかな、なんてことまでときどき感じたり。
関心をもって注目するならば、そういうところもきちんと見たりきいたり感じ取りたいと思う分だけ、そんな時間や余裕はない、と思って、「一つ目の流れ」につながっていきます。
そもそもこれだけの競技をなぜ17日なんて短期間でやるのか。もっと余裕をもって世界が楽しむようになって欲しいな、というのも、心のどこかにはあるかもしれません。
そんなふうにロンドンをみていた(この「みる」は「見る」や「観る」ではないです)ひねくれ者もいます、という日記でした。
そして最後に、選手はじめ、関係した皆さま、お疲れさまでした。
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