2012年 9月 7日 (金)
記憶はきっかけがあれば出てくるんだなー
今日は所属の合唱団の練習。
今年の群馬県合唱祭に参加することとなり、その歌の練習です。
ちなみに今年の選曲は
モンテヴェルディの4声のミサから「Gloria」
「赤とんぼ」(平吉毅州編)
まぁ、この合唱団、過去には合唱祭の先生の講評で、劇的な変化とまで評されたほど、すごい組み合わせの選曲をすることがあるのですが、今年も結構それに近い2曲を選曲したかもしれません。
その「赤とんぼ」の練習のあと、公民館を出るときになんとなく団員が練習をふりかえって? 口ずさんでいました。
山の畑の桑の実‥ の、誰もが知っている2番ですが、「畑」の「け」。練習中もこの音が少々固いとか、逆にここがクライマックスだ、みたいなご指導があり、たしかにそのとおり。だから、練習がおわってもその団員は口ずさんで確認していたのだと思います。
それが、タイトルのとおり。
記憶の引き出しというのは、いわば、「どこにしまったかわからない」状態になる引き出しということはよくいわれます。だから、きっかけがあって、引き出しがぴったりあたれば、忘れていたと思っていた記憶が出てくることがある、という説明です。
かれが、「はたけー‥けー‥うーん」とやっているそのとき、たぶん、小学校3〜4年生のときのことを思い出しました。今まで思い出したこともなかったような記憶。
子供だから、歌とか音楽とか、難しいとかそんなことは思わず、ただ、楽しく歌っているものだと思います(幼少のころから、専門的な教育を受けていれば別でしょうけれど)。そんな私が、学校でこの「赤とんぼ」を教わって帰ってきて、自宅のこたつのある部屋で気軽に歌っていたわけです。
そんな瞬間を、思い出したのでした。
もちろん、記憶の引き出しから出てくるのには、なにかキーワードがあるわけで。
それは、そんな気軽に歌っていた私が、「歌ってむずかしいな」と、おそらくは生れてはじめて思った瞬間があった記憶なのです。
今回歌う平吉先生の編曲では、四小節の一つのフレーズの最初がH(「山の」の「や」)。そして、「畑の」は、Gis、H、E、Cis、H という動きです。(小学校の音楽の教科書は正確におぼえていませんが、そういえば、「け」の音はEだった記憶=楽譜をみて、「ミなんだからそんなに高い音じゃないのに、なんでうまく出せないんだろう」と思った記憶も残っています。もしかするとEsだったかもしれませんが、調性は同じかもしれません)。
専門的なことは今も当時もわかりませんが、3/4というリズムからも、日本語の区切りからも、強拍で単語の頭ですから「は」が大事な音のはず。それを大切にしながら、しかしこの4章節で最高音のEのつけられてる「け」を、自然に、やわらかく、けっして「はたけ」の「け」が大きく不自然にならないように。そんなことが少なくとも求められるはずです。そしてご存じのとおり「くわのみを」で、6度も一気にさがる(CisからE)音形がひかえている部分。
理屈抜きに、感覚として、小学生だったときに、この「け」の音が気にいらない。自分のイメージのとおりの音が出ないと、気づいて、「歌ってむずかしいな」と、初めて認識した。と、いうことを思い出したのです。
当時は変声前(ちなみに私の変声はすごく早く、小学校5年生の夏休みに入ってすぐでした)で、当時の私の声の録音されているものを聞くと、いまいましいと今は思うほど、キンキン声の子供でした。そんなこともあったかもしれませんが、そもそも「やまのは」までがたぶん、いやらしいほど低い音だったということもあったのではないかと推測できます。今、パートはテノールですが、やはりHからはじまる「やまのは」の1小節目は一番いやなくらいですから‥。
という音楽的な分析のようなことはどうでもよく、思いもしないきっかけで、思いもしないことって思い出すことがあるのだな、と思う瞬間でした。
今回の合唱祭に向けての練習で、これがトラウマになるのか、30年以上を経て、解決に向けての原動力になるのか。果たしてどっちでしょうか。
この記事のトラックバックURL
./tb.cgi/199
198.100.144.30 ks4001601.ip-198-100-144.net
198.100.144.30 ks4001601.ip-198-100-144.net
|
ニューバランス靴 http://nekogun.sakura.ne.jp/newblance.php