2014年 11月 17日 (月)
先日の日記のつづき‥妄想が出てくるくらいでないと
24日というと、あと一週間というのに、この状態でいいの?
過去この日記に2度関連を書いた、24日の高崎市民音楽祭で歌う2曲。
特に、島唄はまったくわからんっっっっ! の状態。
せめて詩の理解を、と思っても、ここは予備知識がありすぎて、どうしても偏見がはいってしまう。だから、素直に考えることができない。いや、感じることができない。
じゃぁ、わからないなりに音楽は? となると、沖縄の方が歌っているこれや、作者の宮沢氏が歌っているものなどもあわてきいたりしましたが、どうも情景すら思い浮かばない。
これにまた、信長氏の編曲もイメージがつかめない。
島へは、最近、なにもわからないけれど、感じることができるようになってきたような気がします。これは実はすごく大事だと思っていて、理解するよりも感じられることの方が大切だと私は思っています。
感じるって、すごく抽象的だし、曖昧なんですが、一ついえることは「感想をいえる」レベルにはなってきた、ということでしょうか。
人の集まりにはかならず「だーれかさんとだーれかさんがむーぎばーたけー」はあるわけで、私がいないところで、私と、もう一人、女性未婚団員のうわさをしていたんだそうです。「あの二人は、求めているのか?」と。
「求めているのか」は、この歌の「巡り合いを求めていますか」という歌詞に対応する部分というわけで。
最初は何をおっしゃいます、みなさん。
そう思っていましたが、ふと、歌う側だから、求める側の視点でこの歌詞を考えていましたが、ふと、逆に、この歌の「私」に問いかけられている側にまわったらどうだろう‥と。
見知らぬ人よあなたはどこにいるのですか?
と、問いかけられる側にたって考えてみるわけです。
「巡り合いを信じていますか」
「歩き続けますか」
「つなぐ手と手求めていますか」
この歌の中では、「私」からの問いかけがたくさん出てきますが、どれも満足に答えられない。
満足に答えられない「あなた」を想定して、「私」にもう一度もどってみると‥。
そんなことを思ったのがきっかけでした。
ところで、わかることより感じることが大事、と書きつつ、今だに気になっているのは「あなた」と「島」はイコールなのか、別なのか。
「都会の海に漂い」島をさがすところからは、イコールと解釈するのが素直に思うのですが、「結ばれ睡る緑の」島をさがして‥からは別のように私は「感じ」ます。
(しかし、ここに「睡る」の漢字をあてるところが、作詞の井沢さんすごい。これが眠るではまったく曲想はかわってしまうだろうなー)。
まだ研究不足で、この作品も、武満氏の別荘があった御代田町で創作されたのかわからないのですが、都会の喧騒と自然の対比が随所に感じられるので、都会からちょっと離れたところで作曲されたのかな‥。御代田は東京から160kmくらいだから、ここが、その島だったのかもしれないと、ここは勝手な妄想。
と、いうくらいに思いめぐらせる意欲が出てくればよいのですが、どうももう一つの方(島唄)が‥。
あと一週間、何を思うかわかりませんが、不思議と仕事が忙しいときほど、合間に瞬間的にいろいろなことをを思い浮かべることができます。今週はかなりあわただしいのでそれに期待。
この記事のトラックバックURL
./tb.cgi/329
115.176.76.109 eatkyo638109.adsl.ppp.infoweb.ne.jp
nogun [2014/11/17(月) 21:54] [削除]
27.153.137.243 243.137.153.27.broad.pt.fj.dynamic.163data.com.cn
|
http://petitlyrics.com/lyrics/27345
あたりを参考にしてください。