作者の作ったときの気持ちを大切にしたい
一往、「合唱・歌他」の分類もつけていますが、これは私の考え方のすべての土台かもしれません。
数日前、「蝶々夫人」における日本への誤解、解釈の誤り、言葉の間違い‥を、今こそただすべきだ、という論説を読みました。たしか、日経新聞だったと思いますが、ガソリンスタンドで読んだのではっきり記憶していません。
たしかに、日本への誤解はひどいものがありました。つい20年前の海外の教科書には、ちょんまげに洋服姿の日本人が記載されていた、なんていう話もありますから。
それは誤りであることは主張するべきだし、外交においてはそれは非常に重要だと思います。
そう考えると、この論説はごもっともです。
下駄のまま家に入るという描写(日本が下足を脱ぐということを知らなかったのでしょう)、お経の文言の誤り、日本人がわからない日本語(「掘った芋いじるな」みたいなもんです。外国の方には別の言葉に聞こえたのでしょう。それによる日本語のセリフの誤り)。。そういうのがおかしい、と、筆者が唱えたところ、そんなことわかる聴衆は少ないからこのままでいい、というような扱いを受けて、心外だった、ということも書かれていました。そして、今こそ、これを正すべきだと。
オペラという総合芸術が、そこまで歌詞と旋律、あるいはその情景から想像されるハーモニーをどこまで大切に作曲されているのか、は、私はわかりません。
が、私の歌にたいしての気持ちは、歌は、言葉を伴う音楽です。言葉を最大限活用しなければ、歌である必要はありません。よほど、イメージを醸しだしてくれる技巧的な歌なしの音楽の方が、言葉を大切にしない歌よりも芸術性は高いと思っています。
そういう立場からすると、オペラという総合芸術であっても、言葉、詩の内容と音楽は、切り離せないくらい密接であって欲しい、という願望があります。
私の知識不足や理解力がないから、ということは承知の上で、でも、万人がわからないようなそれは、論文の音化でとどめればよいとも思います。ふるくから親しまれ、言葉と音の見事な融合を果たしたと思われる唱歌の編曲などは、言葉の意味と無関係な音楽的な技巧をつけまくっている作品は、どうしても好きになれません。もちろん、ある作曲家が成長する過程で、単純なそれでは認めてもらえず、自分の技巧をアピールするためにそういう作品を発表する「時期」が必要であろうことは、音楽の業界に限らず、若手が台頭するためにはやむを得ないのかもしれませんが、若手作曲家の編曲モノに、ずいぶんそれを感じることがあります。
日頃そんなことを思っているので、さて、では、日本語が正しくない、日本文化の理解が正しくないからと、歌詞や演出を後世の人間が勝手に替えていいのだろうか‥。私には、上記の論説を読んで、そんな疑問が生まれてきたのでした。
たとえば、歌詞が日本語の発音を間違って採用していたとしても、その歌詞のイントネーション等にもとづいて作曲家は作曲している(と、信じたい)。だとすれば、後世の人間が、正しい日本語に勝手に替えてしまっては、作曲家が大切にした歌詞を活かすテクニックを無視することにならないだろうか‥、という具合です。同じことは、ネット上の別のサイトに、一個人の感想として、「ペチカ」を「ペイチカ」と、山田耕筰先生が歌わせることにこだわったことについても、私は感じています。
そもそも法律論からすれば、作詞家の著作者人格権侵害とも考えられますし。
下駄のまま家にはいるからこその演出もあったかもしれません。それを、文化の解釈が間違っていたならば、そのままとして、むしろ、かつての解釈は間違っていた、ということを理解して鑑賞する方が、よほど文化的だと思うし、それを伝えることで、日本への誤解は、いっそう正しく伝わるような気もします。
そんなの、気にしないよ、というクリエイターもいると思います。
でも、それを気にするくらい、ひとつひとつの音、作詞家ならば、ひとつの助詞、句読点の位置までこだわって、全身全霊を込めた作品を出してほしい。と、思うので、プロだろうが、私のようなド素人であろうが、それを演奏したり上演するときは、その気持ちを大切に考えていきたいと、思うのです。
そのぐらい、作品を発表することは真剣勝負で、それを利用するのも真剣でなければならない、というのは、少々重すぎる考え方でしょうか。
ここにド素人アマチュア合唱団の場合、わかっちゃいるけど表現技術が及ばない、という悩みもいつもつきまとうのですけれど‥。
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