最近の私的の雑感

不定期・不確実の、妄想・幻想・感想 etc.

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2008/06/29/(Sun) 悪い人の意見でも公平にきかないと…

北朝鮮が報告書を出して、アメリカがテロ指定を解除、という話題があがっています。

ふと、この構造って、どこかでみたことがないか…と思っていたのですが、ああ、イラクとアメリカだ。

そうすると、アメリカはイラクがトラウマになって、正確な報告書の審査ができないのだろうか、という気がします。

イラクのときは、ありもしない(いや、少なくとも、現在まで発見されていない)化学兵器があるという色眼鏡でイラクの報告書を審査し、それが記載されていないから、うそ・でたらめだと決めつけて、戦争に突入しました。その戦争の結果が、どんなにブッシュさんががんばっても、マイナスだったというのは否定できないでしょう。と、いうトラウマです。

まして、今回、各専門家、コメンテータがいっているように、ブッシュ政権の外交の失敗をぬぐうため、という目的もあるとすると、この報告書の審査はあまくなる。いや、イラクのときは「うそ・でたらめ」だと思い込んで審査したのと逆に、「何が書いてあってもOK」という結論があって審査するのではないかと。

あまり外交はわかりませんが、この報告書は六カ国協議によるものらしいですから、ならば、他の4カ国も審査に加わって、少なくとも多数決(3:2なら承認ということかな?)とするくらい慎重であってもいいと思うのですけれど、そういうことは考えないのでしょうか。

それと今一つわからないのが、核とテロとなんで関係あるの? と。
核開発や核兵器をもたなければテロ支援にならない、ということならばわかるのですが、どこでつながるのでしょう。たしかに、核拡散をしてテロリストに核兵器が流れるきっかけの一つはなくなるかもしれませんが、核兵器以外の部分でテロの支援をしていれば、なにもつながりはありません。それこそ、イラクで問題にした化学兵器を、核兵器のかわりにテロに流していれば、もっと恐ろしいテロ支援国家ではないのだろうか。
この点からは、たしかに、アメリカの外交のマイナスを補うパフォーマンスにすぎないという意見はもっともなように感じます。核拡散には大きな前進で、世界平和という大きな範疇ではプラスかもしれませんが、テロ対策には何も前進していないということになりますから、なぜテロ支援国家の指定を解除するのか…。

他方、日本もイラクに対するアメリカの二の舞はいけないと思います。拉致問題がありますから、日本は逆に「何が書いてあっても出鱈目」という結論で北朝鮮の報告を判断する、ということになるでしょうか。とくに最近、今回の報告書にかぎらず、「北朝鮮のいうことやることは出鱈目」という前提、前提ならばいいですが、そう決めつけている傾向があるように感じてなりません。たしかに、他人の遺骨を提示したり、情報をあとから都合にあわせて修正したり、という過去の行為からは信用できないのはたしかですけれど、都度、新しい提示や発言を、いちいち決めつけて見ていくことは、イラクに対するアメリカと同じ失敗をするのではないかと気になります(そもそも…北朝鮮って、実は、能力がないだけでは? と思うのですが…。拉致被害者の生息、生死に関する情報を把握すらできていなくて、あわてて回答し、辻褄をあわせるために他人の遺骨を用意し…これだって、DNA鑑定などでバレるということすらわからない能力しかなかったのでは?。ただ日本もあのDNA鑑定は、公平な判断だというパフォーマンスのために、第三国にも同じ鑑定をさせるくらい慎重だったらよかったのに、と私は思います。それはともかく、そんな能力がない、情報も資料もないのならば「わかりません」といえばいいのに、それはプライドが許さなくて、日本からは資料をだせ、報告をしろ、と言われてオドオドしているだけではないかと…思うわけです。ならば、「ごめんなさい、わからなかったのでうそつきました。今から鋭意調査して報告します」くらいいってもいい(いってもよかった)と思いますが、国家として調査できるほど体制がしっかりしていない。北朝鮮にとっては、日本の不明の年金を1か月ですべて解明しろと言われているのと同じくらい難しいことで、「今から調査します」と北朝鮮かいうのは、舛添さんができもしないことを答弁するようなものじゃないだろうか。あ、こんなこと書くと、国家を馬鹿にした、と、工作員に暗殺されるかしら…。まぁ、以下はそこまで能力がないのではないという前提で)。「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」(宮澤賢治)と、私は思いますから、拉致問題の解決なくして世界平和もないと思います。でも、拉致問題に固執するばかりに、北朝鮮のもっと大きな反世界平和につながる行為を公平に評価し、分析できないで見方をあやまることがあれば、その挽回はますます難しくなるかもしれません。だいたいものごと、複数の問題を関係させるから難しくなることが多いものです。ここは、きりはなして判断していくことが必要なのではないかと思います。


2008/06/22/(Sun) ちょっと違うが大分違う

秋葉原の通り魔事件に関して、今日もテレビは朝から特集をくんでいました。

複数のマスコミが、同世代の若者にアンケートをとったようですが、いずれも、なんとなく気持ちがわかる、という趣旨の回答があることを紹介しています。

ただ、正確にアンケートを読み上げたわけではなく、キャスター(またはコメンテーター)が紹介しただけなので、わかりませんが、ちょっと違うけれど、大分違う2つの意見を、同じ土俵にあげて紹介していたように感じる場面がありました。

ゲームやインターネットの影響もあり、社会のひずみ(社会格差etc)が、
1)背景にある、または背景にあるので気持ちがわかる
2)背景にあり、背景にあるから、社会が悪いと思う気持ちがわかる

この2つは、スゴク似ているけれど、ぜんぜん違うものではないかなー。

本当に違うものなのか、いや、アンケートの趣旨が区別されているのかどうかすらもわかりませんが、少なくとも私自身は、この2つは違って、1)は私も同感、わからないでもないと思いますが、それを転嫁するのは、あまりにも他力本願、自己中心的で違うと思います。

また…

今朝の番組のコメンテーターが、自由主義や資本主義という前提があって、その中で人の関係や思いやりを教育しなければならない、ということをとりあげていました。

そうかなー。自由主義、資本主義のあり方から、若者ならば若者のほど考えて、改善あるいは、(私はけっして共産主義・社会主義者ではありませんが、自由主義・資本主義が唯一絶対に正しい政治構造、経済構造とは思わないので)あらたな仕組みを探求する気持ちをもって欲しいな、と思います。

ふと、思うのが…たしかに、知的財産について評価が低いという現実もあるかと思います(でも、ここ4-5年の日本の知的財産に対する評価はけっして低すぎるとは思えない。アメリカのたまたま勝訴した知財関係の評価が、異常に高いだけじゃないだろうか、とも思います。だいたい、こういうのは、異常に高額だからこそ、海外の判例が紹介されるわけですから(余談の余談ですが、離婚訴訟の慰謝料なども同じですよ…アメリカでは○○万ドルだ、と、よくいう方や、それを紹介するマスコミもありますが、それは、勝訴の極端な例の一つに過ぎませんから…余談の余談終わり))。

いわゆる勝ち組の中の勝ち組。ましてやほとんど不労所得ですごしているような人がいる反面、ワーキングプアのような現状があるのは、本当に妥当なのだろうか。ええ、たしかに勝ち組の中の勝ち組になるために、努力してがんばった「時期もあった」でしょう(「」でくくったのは、今は違うという意味。だから)。でも、その努力とがんばりの積み重ねとして、そんな生活か正当な評価なのだろうか…ということはいつも思います。
忘れもしない、小学校の算数の先生がよくいっていました。君たちの生活、将来の成功はすばらしい。でも、育ててくれた親がいて、その周りの環境の中にいて…。殿様だって籠にのり、籠を作る人もいれば、籠を担ぐ人、そして、籠を担ぐ人の草鞋をつくり、草鞋の元になる麦をつくる人が、「いなければ」殿様はいないんだ。と。

でも、現実として、藁をつくる人<草鞋をつくる人<籠を作るひと<籠を担ぐ人<殿様、と、所得は増えていくでしょう。そして、どの人も精一杯仕事していたのだとしたら、資本主義原理にのせれば、そこから派生した経済効果に対して所得がきまるのかもしれませんが、藁をつくる人がいなければ殿様は存在できないのだとすれば、所得は平等でないと…。

と、なんとなく思っているので、資本主義、自由主義を前提として(と、このコメンテーターがいっているのは、秋葉原の事件が、社会構造のゆがみによるのだけれど、という前提なのでしょう)、ではなく、そこから見直すくらいの気持ちももって欲しいなー、と、夢としては思うのでした(あとできづきましたが、このコメンテーターさん、たしか、政府の教育なんとかの委員さんですね。こういう方が教育論を語っているのか…と、重ねて疑問も…)。

ゲームは私は嫌いだし、ほとんどやらなくなったので関係ないと思いますが、宮崎事件のときは、自分におきかえて、ドキっとしたこともありました。時代の最先端で、人との関係造りがどうも苦手だ、という自覚があったからです。逢うより電話、電話より手紙、手紙よりメール、と思う典型的な若者でしたから。だから、自分もその一人だと思うからですが、ネットが今のひずみを大きくしていることは実感として感じます。
ゲームも、前に書きましたが、このままではおかしくなる、と実感した時期があったから…ということからすると、ゲームも関係がないわけではないでしょう。

でも、ほら、資本主義経済のひずみですよ、ここでも。
数年前のゲーム脳の問題提起も、いつのまにか抹消されました。科学的に否定できたわけではなく、肯定できなかっただけでしょう、これも。なのに、今はとりあげる人すらいない。
だって、コンピュータの発展も、技術の発展も、そして、知財権の異常な高騰で、もうかる人がいるわけですから、ゲームにマイナスな情報を発信することは、よほどのことがなければすることはできないのでしょう?

と、まで勘繰ると、行き過ぎかなー。


2008/06/20/(Fri) 死刑存続・廃止論が再燃のようで

宮崎勤死刑囚の死刑が執行されて…いや、現法務大臣になってからの急ピッチな執行をきっかけとして、存続・廃止論がまた話題になっているようです。

私は基本的に廃止論側に近い考えをもっていますが、死刑制度がある以上は、刑事訴訟法にしたがって、刑の確定から6か月以内に執行しないのはおかしい、とも思っています。ただ、なぜ、宮崎死刑囚がこのたび選ばれたのか…。死刑執行の順番に客観的な基準がないのは、恣意的な執行=都合のいい執行につながるのではないか、という疑問は消し去ることかできないですね…。

私は、どうも極端な応報刑否定の考え方をもっています。被害者感情をなだめるために刑罰はあるのではない、という考え方です。
だから、犯罪被害者の人権=犯人・被疑者・被告人がどのような状態になっているのかを知る権利とか、どうも、私は実感としてわきません。わかないだけで、否定もしませんが…。以前にもこの日記で書いたとおり、被害者の感情をなだめるのは、応報刑やこれらの知る権利を充足させることも一つの方法かもしれないが、それが最優先されては、一般予防という観点、真実の探求という観点は後退してしまうのではないか、と思うので、順位としては2番目、3番目におくべきではないか、と考えています。

目には目を、という論理が不合理だからこそ、近代から現代は刑罰のあり方を反省して工夫してきたわけですから、短絡的な、古典的な応報論はもはやナンセンスだとも思います。ただ、そうはいっても、被害者の人権も(知る権利ばかりではなく、もっと総合的に)大事なのはたしかですから、一定程度の応報感情にしたがった刑罰は必要だとは思います。ようするに、それを前面に出して一番の価値をおいてしまっては、古典的な応報論と同じじゃないか、という程度の意味です。

そういう考えをもっている者からすると、今回の宮崎死刑囚の執行は、ちょっと疑問ではあります。また、私自身、冗談半分に、「もし弁護士だったら」、宮崎事件のときは、宮崎の弁護士を、オウム事件のときはオウムの弁護士をしたい、と言っていたくらいです。それはなぜか…。裁判は20年はおろか、40年くらいはおわらないだろうから、安定収入になるから、というのが、そのオチでした。そう予想していたので、わずか? この程度の期間で、宮崎事件が終焉するのは意外といえば意外です。

被害者の感情という観点からは、これでもおそすぎたと思います。でも、宮崎事件は、それ以前からくすぶっていた、よくわからない現代的な犯罪を、議論の表に引き出したという点では、歴史的な事件で、精神鑑定のありかたなどをみれば、日本の刑事手続きのターニングポイントになった事件だと思います。だからこそ、慎重に、後世の、これからおきるだろう(いや、増えるだろう)同種の事件の刑事手続きのために、中途半端な結論は導くべきではない、というのが、ずっと思っていたことです。仕返しをしてやりたい、と同時によく聞かれるのが、被害者の遺族の言葉で「同じことをくりかえさないようにしてほしい」という言葉。そういう観点からすると、この事件の幕をここで降ろしてよかったのだろうか。もっと追求すべきことがらはたくさんあったように思います。

でも、他方、実務の世界の限界は越えていたかもしれません。これからは研究の世界の問題かも。ならば、実務の世界は、被害者感情を考慮して早く幕をおろすべきだし、おろしても、研究は続けられていけばそれでいい、という考えにつながるかもしれません。

でもね…。学者も大半は金儲けですよ(^^)。幕をひかれた事件の研究は、金儲けにならない。そうなれば、研究者も減っていく…。

秋葉原の通り魔といい、ますますわからない事件が増えてきています。

ここで、学生時代に、酒場で冗談でいっていた話題がふと思い出されます。「社会の製造物責任」。「親の製造物責任」って、民法で習い立ての言葉を使っての冗談話ですが…。おかしな子供が育つのは、社会や親の「製造物責任」をとうべきだ、という冗談話でした。

でも、こんな冗談話が想起されるほど、冗談のような、というか、信じられない世の中になってきている気もします。

もちろんその場合、製造物責任を負うのは、社会の一員である私もその一人なのですが…。


2008/04/24/(Thu) オリンピック

やめちゃいましょうよ、実際。

でも、スポーツの祭典だから、選手のためには開催しないとなりませんね。
でも、平和の祭典の側面をみたら、まるで開催の意味がない。

チベット問題って、複雑で歴史もあって、どっちが悪いとは私はわかりませんし、誰もわからないと思います。絶対的に一方的な悪はないでしょう。

ただ、自国の政治が、民主主義でも、社会主義でも、絶対王政でも、なんでもいいんです。国際社会は、賛否はともかく、今は「話し合い」で一応(一応です、その旗振りをしている亡国が、軍事力に物をいわせることもあるので)、なりたっているのですから、対話に応じないという姿勢は、どんな理由でも、国際社会では避難されてもやむを得ないと思います。そうすると、この点は中国が悪い。

でも、悪い奴が幹事だからといって、世界中(と、いうことにしておきましょう。オリンピックもいろいろあるようですから)が楽しみにして、政治抜きに、スポーツを純粋に、と思うところに、政治的主張をし、主張するばかりか、実力行使するのは、これまたよくない。交渉に応じない相手にヤクザを送り込むようなもんです。

出場選手は気の毒に思いますが、もはや北京が会場にきまった時点で、この状態は読めていたのでは? そうすると、ここに決定したJOCの責任?

近代オリンピックがはじまって以来、こんな悲しい開催はなかったのではないかと思いますが、近代オリンピックの歴史を考えると、たかだかこんな短期間でも、平和は維持できないのが、人間という生物の本性なのかもしれない、と、ふと思うのです。


2008/04/19/(Sat) やさしい人

高校生のときに、やさしさってなんだろう、と、結構マジメに考えたことがありました。
そんな中、大学時代に、いとこの父親(叔父)が亡くなりました。亡くなった日は通夜にいき、その後暫く話をしていましたが、翌日のこともあり、いよいよ帰宅することになりました。そのときに「やさしさがないな」と、ボソっと、父親が言っていたことを鮮明におぼえています。いまだに、あのときの行動のどこにやさしさがなかったのかわからないまま‥もう20年近くたってしまいました。

やさしくする相手に気付かれないことがやさしさではないか。そんな風に考えたのは7−8年前です。いい人とアピールするために気付かれるようにすることは論外で、相手に後に負担にならないように気付かれないように、自然に、そして過度でなく。いうまでもなく、気付かれない好意(行為)ならば、見返りも求めていないことは当然です。

この仮説は、今でもまんざらではない、と思っているのですが、そうすると、これはきわめてむずかしい。

もしこの仮説にたつと、数えきれないやさしさに気付かないまま生きているんだ、ということも、同時に常に意識して、感謝の気持ちを忘れないことも大事、ということになるのだと思います。

この4月は、そんなことを感じる場面になぜか多く遭遇しています。


2008/03/24/(Mon) ○○モンスター

タイトルのような言葉をずいぶんききます。あるいは、行政暴力とか。

今日も、医者、病院に対して暴力をふるう、患者モンスターが話題になっていました。

学校の先生、行政機関、病院。これらがよくこの言葉がとりあげられ、また、最近はその暴力対策が問題になっているようですが、これって、直接対面する顧客サービス業務には、昔から当然のことじゃない??

今まで暴力がなかったのが、暗黙の権力の力があっただけで、サービスではなくて、強権的な態度で仕事ができていた「偶然」があったわけで、それが、やっとまともなサービス業のひとつに、むしろ成長したんじゃないだろうか。

まぁ、個人的には、学校の先生家業は、強権的で、けっしてサービス業とは違う、一線をひく「べき」ものだとは思うのですが(それは、最近は、塾と学校が対等に取り扱われることが良しとされる記事や報道が多いですが、塾とは違う、という私自身が勝手にもっている「理想」があるからなので、まったくもって合理性のない主観的な理由です)、行政と医者は、サービス業でしょうに。特に行政は、権力をちらつかせるどころか、権力を感じさせることすら、本来はいけないんじゃないか、と、日々思っているので、そういう考えの私からすると、顧客から暴力や暴言、嫌がらせが出てきたということは、ようやく、サービス業としてまともになってきた、ということで、対策は必要だけれども、むしろよろこぶべきものじゃないか‥なんて思うのですが、こういうと皮肉でしょうか。

行政書士という仕事、行政がサービス業務のひとつだという認識がなく、顧客=国民・市民に不親切だからなりたつ部分もあるので、あんまり親切になりすぎると困ってしまう部分もありますが。

病院で急患が多いからまたしてしまった。これは立派な正当な理由だと思います。でも、その理由をきちんと説明しているか。少しでも快適にまっていただく対処をしているのか。という目でみると、今の病院は、私のしる範囲ではどこもそのような対応はしていないと思います。これ、民間企業でお客様をお待たせしていれば、理由の説明や、快適にまっていただく工夫をするのはむしろ当然でしょう。まだまだそういう意識がないからモンスターがますます凶暴になっているだけじゃないでしょうか。

(やや本題からはずれますが、このひとつのエピソードとして思うことに、病院の予約って、なんであんなに時間に不正確なんでしょう、というのがあります。先日も、11時の予約でいったら、診察は実際には2時。特に急患かあったわけでもなく、単純に診察がのびて、時間が押してのことのようです。時間もありますから、じっくりと待ち時間の案内をみていると、30分単位で3人の患者の予約が入るシステムになっているようでした。しかし、そもそも受診科によっては、一人の患者が10分でおわると設定していること自体がおかしくないですかね‥。病院経営も苦しいそうですから、1人あたりの時間を多めにとって、お医者様が手持ち無沙汰になっては採算があわないのかもしれませんが、それならば、機械的に30分3人ではなくて、予約患者の個別具体的な診察内容まで含めて予約時間を予測するシステムを導入すれば、かなり改善できると思います。だいいち、予約患者がいない時間が少しでもあることが、診察の余裕にもなるし(結果、誤診などもなくなる)、急患への対応にもなるのではないでしょうか。そう考えると、予約システムからして、まだまだ病院は、強権的で「みてやっているんだ」精神が丸見えです。高崎である病院が、診察をおえた患者に「ありがとうございました」というようになって、すごい、と評価された病院がありましたが、形式的に言えばいいというもんじゃないですね‥まったく)。

と、思うと同時に、これらを反面教師とみて、行政書士は弁護士ほど強権的な仕事はできませんし、今どきしていたらやっていけない、社会的地位は低い低い仕事になってしまっていますが、それでも、上記の病院や行政サービスのようになっていないかどうか、反省するところです。仕事だけでなく、およそ人に接するときの基本原理かもしれませんね。


2008/03/18/(Tue) ますます感じる1月6日の日記

1月6日の日記とは、

http://www.ofnon.com/nicky/pri/nicky.cgi?DT=20080106A#20080106A

です。

障害者用の駐車場であって、車椅子用ではない。

なのに、ますます最近は、車椅子専用と表現しているところが増えてきているように思います。今日も、「車椅子の方専用です」と書いてある民間施設に出くわしました。

そもそも、これは、マークからしてかえなければ、解決しないと思います。あれはどうみても車椅子のマークです。

1月6日の日記にも書きましたが、呼吸器の障害を受けている母のような立場の人はどうすればいいのでしょう。1月6日の日記にも書きましたが、車椅子の方は、車椅子が出し入れできるだけのスペースがあれば、入口から遠くてもそれほど不都合はないはずです。でも、呼吸器の障害をもっている場合は、入口から遠いと、入口にたどりつくのがどれほどの負担になるのか。呼吸だけでなく、車椅子を使っていない身体的な障害をもっている障害者にとっては、入口近くまで車でこられることが、どれほど重要か。

なぜ、これは、マスコミでもとりあげられないのでしょう‥。

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