最近の私的の雑感

不定期・不確実の、妄想・幻想・感想 etc.

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2007/11/28/(Wed) 下の日記の続きではないですが

ある高校生の疑問。
親が門限を18時に設定して、それを過ぎるとすごく怒られる。
でも、(たぶん、どこかの県条例でしょう)16才未満20時、18才未満22時まではゲームセンターにいても違反ではない。だから、18時を過ぎても20時までにかえれば悪いことはしていない。
子供にも権利はあって、生存権、幸福追求権、表現の自由(などをいっているのだろうなーちょっと言葉はちがっていたけれど)が保障されているのだから、親だからといって、18時に制限するのはおかしい。親権の効力はどこまであるのか。
で、私は悪いことしていますか?

みたいなものを、ネットでみかけました。

ノーコメントです。
こういう高校生が少なくとも一人いるんですね。ゴキブリは1匹みつけたら30匹はいると思え、という言葉がありましたが、そうすると、ネットに一人いるのだから、全国にはきっと相当数が。

あー、おわりだ、何もかも。
そして、こういう子供に何もいえない親なんだろうなー。そういう親もうじゃうじゃいることが‥。

何もいうまい。


2007/11/17/(Sat) 子供の気持ちを育てることと環境問題

などと、重々しいテーマですが、最近、自分を振り返って思うことで、そんなに重々しいことではありません。

子供のとき、環境問題に目覚めた時期がありました。小学生ならではの「なぜ」という純粋な疑問。なぜゴミが増えるのにお店では包装するの? 。なぜ公害につながるのに無駄なプラスチック(などの石油加工材料)を使うの(かろうじて私の子供の頃は、量り売りの商品が普通にある時代でしたので、缶や瓶詰め、発泡スチロールなどなどは、そうみえたのです)。学校の机はなぜ廃棄後に処理が難しい金属などを使っているの‥etc.。おとながタバコを吸うことも子供にとっては大きな公害。なぜ、大人はご飯やおかずを残すの?(と、当時両親がやっていたお店のお客の残したものをみて。ちなみにこれがきっかけで私は一時期太ったように思います。なにがあっても残さず、人が残したものも食べていましたから‥は別問題か)。

大人の回答は、子供はそういうことは気にしないでいい、というものもありましたが、逆にそれなりに社会構造を知らされるようなものも。「量り売りよりも企業がもうかるから」とか、「廃棄のことを考えるよりもコストが抑えられるから」とか。でも、子供ながらに反論したこともおぼえています。「今はそれでもいいかもしれないけれど、未来になって公害でみんなが困れば、その対策でもっとたくさんお金がかかるじゃない」、というようなものです。これに対しても、「そんな先のことよりも、目先の利益、収益が大手企業は大事。大手企業が政治家を選んでいるから、政治家もそういう法律を作るし、だから、お前(子供)がいっても無駄だし、普通の大人がいっても無駄なの!」というような再反論。

まぁ、考えてみると、よくもここまで子供ならではの「なぜ」に答えてくれていたな、とも思います。でも、いつもこういう反論を聞かされてそだった私は、環境より収益が優先。そうして大きくなった会社のいうとおりに政治家は動いて社会もそれにしたがっていく「ものなんだ」と、植えつけられたような気がします。

だから、最近、すなおに「環境に取り組んでいます」という趣旨の企業のコピーをみることができない。何をいまさら環境環境って叫んでいるんだ。私がン十年前にいっていたことなんか無視していたくせに。ン十年前から取り組んでいれば、こんな日本にならなかったんだ。と、思うのは、本当に本音です。だから開き直って、環境問題なんてくそくらえっ。一消費者が無謀なことをしても平気なように企業側が、行政がもっと努力すればいいじゃないか。ン十年前に庶民の声、子供の声を無視して、いよいよ問題が顕在化してきたら、今度は環境にとりくむことを企業イメージのアップに「利用」してやがる。と、いう感じに思うわけです。油の廃棄は、企業のそれよりも家庭の方が大きいという統計もあるそうですが、それだって、大手企業とそこからお金をもらった研究機関、分析機関、政府が談合して、そう発表しているだけじゃないの? と、まじめに思いますので。

たぶん、これ、かなり強固な印象です。だから、私はきっと、そうとうなことがないかぎり、このように思い続けると思います。

それだけ、子供の気持ちを育てることはだいじなんだ、と自分自身の経験で思うし、なかなか一丸となって環境問題に取り組むことは難しいだろうな、と思うのです。

他方、今は、子供の意見を聴く世の中になっているのか。ここにも、私の上記の経験からのゆがんだ見方ができてしまいます。たしかに子供の意見をきいたり、とりあげたりするマスコミ、企画、あるいは国際法規もできてきました。でも、それも、大人だけでネタがないし、いいたいことをいえない大人が、子供の声を利用しているだけじゃないか、という見方をどうしてもしてしまいます。テレビだって雑誌だって、子供をとりあげれば、とりあえずは批判もまぬがれて、それらしい意見をだすことができますから。そう、子供の声をとりあげているのではなく、子供をいいように利用しているだけなのが現在ではないかと。

こういう考えは、さすがにひねくれすぎですかね‥。


2007/10/27/(Sat) 元記事がみつからないが‥メールって

メールは、連絡手段としては衰退する、という趣旨の記事を読んだ記憶があります。1年くらい前かな。

最近、それを強く感じることがあります。

迷惑メール・スパムメールによる大切なメールが埋もれてしまう可能性。
開封したかどうか、到着したかどうかがわからない不安。
画面でみることと紙で見ることの理解力の差(は、私だけ?)。
トラフィックに左右される不安定さ。

そんなところが原因でしょうか。まぁ、3番目はそのうち回復するかもしれませんが、他は、現在のシステムではどうにもならない。

そして、メールアドレスは頻繁にかえてもよい、という考え方。

ろくな迷惑メール対策をしないで、「迷惑メールが増えたら対策としてメールアドレスを変更しましょう」と、ユーザに不便を強いてきた、携帯各社! これが連絡手段として無駄になることを助長しているのはあきらかだと思います。郵便みたいに、半年なり1年は、転送してくれるとかないと(それでは迷惑メール対策になりませんが)。

メーリングリストとか、団体の連絡用に設定したグループなど、このおかげで1か月もすると使い物にならなくなってしまう。住所は引っ越すと連絡をくれるが、メールはかわっても連絡をくれないことの方が多いから。

そして、携帯でインターネットのおかげで、携帯インターネット&メールのスキルは、この3-4年で日本人は飛躍的にアップしたかもしれないが、パソコンでのそれは、かえって下がっているのでは? だから、PCで設定したり転送したり、ということが、携帯は使いこなしているくせに、できない、あるいは、「携帯でできないから面倒」とまでのたまう人もいる。ポチポチ携帯で1000文字も入力する暇があったら簡単だろう、そんなこと。

などと、ML や連絡網管理していると感じるのでした。

もう一つ衰退すると思う理由は、メールの普遍的なマナーがないこと。これはやや逆説的かな。
たとえば、私がメール(正確に区分すると、e-mail と電子メールは違うそうだが、ここでは、そういう意味では電子メール)を使い始めたときは、漢字を読めないユーザが多いから、日本人には半角カナ、外国にはカナを絶対に使ってはいけない、がマナーであり、ルールだった。もう少したつと、漢字が読めるのは当たり前になったので、「機種固有文字を使わない」がマナーになり、さらに、(通信費がかかるから)一般の手紙のような序詞などはおかずに、要件だけを簡潔に、ということになった。が、その後にはある程度手紙のような「形式」を整えることがマナーになり、さらに、最近は、html や 絵文字 も、ある程度許容されるようになってきている。

技術が進歩するから、上記の程度のマナーやルールがかわるのは仕方ない。でも、こういう流れと、気楽さが手伝っているのか、根本的なマナーが確立していないように感じる部分があります。まぁ、メールにかぎらず、最近生まれたメディア、技法、技術、しきたりには、似たようなものはいつも感じます。
たとえば、連絡が「中心」のMLに、私見を平気で送りつけるやつ。グループで利用しているMLなのにほぼ1対1ですむ連絡を使うやつ。ろくに内容を読まないやつ。いわゆる「ゴミ」を書くやつ‥。かつて、BBSに「ゴミ」発言するのがどうのこうの、という話題がありましたが、BBS はまだいい。スルーすればいいのだから。だから、私はほとんどアクセスしないが、2ch は、あればあれでお上の規制なく育ってほしいな、と思います。マナー違反者には自己防衛すればいいわけですから。でも、メールは、ゴミを巻かれると迷惑なんです。MLのシステムや、サーバーの機能によっては、対応策を技術的にこうずることができないこともある。だから、発信者がマナーを守ってもらうしかないわけです。でも、それがかなわないときは、これは、知っている人からのメールでも、立派な「迷惑なメール」。アドレス指定で拒否できない分だけタチが悪いかもしれない。そして、それがいやだから、と、せっかく事務局、執行部などの側が設定したMLでも、ぬけてしまう人が出てきたら、末期症状です。
でも、さっきも「中心」と書きました。境界がはっきりしない。ゴミ発言も、真剣な議論のなかでエスカレートしすぎたときのひやかしとか、逆に話題がなくて静まりかえっているMLなどでは、ゴミの様相を呈していても、それはゴミではない。ようは、その境界が難しい。

が、もはやメールでの連絡とか、MLというものができてから10年くらいになるのだから、少しはルールやマナーが確立してもいいだろうに、なぜか、このジャンルだけは、規制されないのがメール(いや、IT)のメリット、といわんばかりになぜかあまり注目されてこないまま。

この日記前半は、管理者側としてでしたが、後半は、ML参加者として、衰退するなーと感じる側面でもあります。おかげで、いわゆる ML は、私はずいぶん脱退しました。もしくは、申し訳ないが、@nifty の迷惑メールフィルターで、迷惑メールに指定しておいて、必要な内容のものだけ復活させるようにしています。でも、これも数が増えると面倒で、無駄な時間です。なのに、今月は、やむをえず新規に2つはいりましたが、早いところぬけてしまいたいと思うほど、迷惑なメール(「迷惑メール」ではない)が毎日きております。


2007/10/24/(Wed) 悪いことは悪いが、何が悪いのか

って、タイトルから混乱していますが。

犯罪とは、構成要件に該当し、違法かつ有責な行為、というのは一応今も通説だと思います。で‥だ。この「構成要件」って、というのは、難しい刑法総論の議論は抜きにして、その妥当性とか、道徳との関係とかは、誰もが思う論点でもあるでしょう、きっと。

いや、犯罪でなくても、この3要件(構成要件/TB、違法性/R、有責性/S)で、善悪を判断するという方法は、なかなか合理的だと思います。道徳的にいけないことか、ということでも、そういう道徳があったのかなかったのか、あったならば、それに当てはまるのかがTBで、それに違法性阻却事由があるのかどうか(だけではない、という見解もありますが)がRで、その結果や行為を責めることができるかどうか(S)という視点、観点は、理に適っていると思うわけです。

一連の食の安全の事件の前から、食品に関する事件は、どうも、この構成要件該当性にいつも疑問を感じていました。一定数量の毒性のある細菌が検出されたのに販売した、というのは、一つの構成要件ですが、その一定数量にどの程度妥当性があるのか。

そんなことを思ったのは海外旅行をしたときなんですが、だって、日本より遥かに細菌が多くても、大半の国では販売しても何もおとがめがない。たしかに日本人が食べると食中毒を起こすとしても、現地の人たちはそれになれているから問題なし。という状況に、海外旅行だとよく遭遇します。だとすると、ホモ・サピエンスの機能を麻痺させるほどに日本の基準が厳しくて、勝手に食品業界の人たちの首をしめて、結果としてその品質監理のために、食品の単価・コストがあがって、さらに結果として消費者を苦しめているだけじゃないか、と、初めて海外旅行をしたのはもう10年以上前ですが、そんなことを思っていました。

が。たとえば、道徳的な規範とそうでない規範があり、刑法総論でもこれはとりあげられて、その典型が、「車は左側通行」です。これは、違反しても本来は道徳的にはなにも悪いことではない。でも、今となっては「みんなが決めたことを守らないことが悪い」という道徳は働くでしょう。同じ理屈で、食品に関する諸法令を守らないのは、だから、たしかに悪い。

最近の赤福、地鶏、チョコレート‥。一昔(だなー、すでに)前の雪印。さぁ、これで食中毒起こした人がいたの? と考えると、表示を嘘ついたのはいけないし、処罰されてしかるべきだとは思うのですが、消費者の異常な「消費期限・賞味期限」への信仰、食の安全=正確な表示と公開性、といわんばかりの最近の世論が、業者の首をしめて、一線をこえさせてしまったのでは? という印象が、私はあります。もう少し規制がゆるやかで、消費者が正しい知識をもっていれば、もっとゆとりをもった商品製造もできて、販売もゆとりが生まれて、そうすれば、こんな表示の偽装などしなくてもすんだのでは? という考え方です。

食べ物ばかりではなく、大学で民法の勉強(不法行為法)をしていたときから疑問だったのが、あまりにも注意喚起の義務が強すぎないか、という疑問です。まぁ、あぶない池に「近づくな」だけでは不足だと思いますが、判例によれば、乳幼児ともいうべき年齡の子供がはいれないようにする義務があったとかなかったとか、という話になっていきます。消費者保護法制が充実してきたホソカワ内閣以後は、本当に、消費者の無知(無知も、不勉強の結果による無知)をすべて製造者・生産者が面倒をみてあげなさい、という感じの規制ばかり。最近のエスカレーターの事故なんか、子供を遊ばせる方が悪い、と(少しは私は)思うのですが‥。これも一昔前になりますが、ファミレスのスープが熱くて子供が火傷したと裁判した方がいましたが、スープが熱いものだと教えてからファミレスにくればすむことでしょうに‥。

この結果、商品に保険料が上乗せされ、公平な価格競争といえども、「保険なしでいけるところまでいってあとはつかまっても仕方ないや」的な企業の廉価な商品と、きちんと対応、対策をうった企業のある程度高価な商品とに、おそらくは二分化していくのでしょう。でも、前者(廉価な商品)を買って、被害を受けて、裁判して(ここでもお金がかかって、時間もかかって。なにより、悲しい想いをするのは救えません)、結果、勝訴しても賠償能力がないような会社の商品だから泣き寝入り。と、なるのは、二極化社会では、こういう商品を買うのは「負け組」ばかりでしょうね‥。

で‥しょせん今の選挙制度は、金持ちが応援する政党がかつ仕組みになっているとしか思えない。と、なると、「勝ち組」に不都合な法律を作るような国会議員は当選しない。だから、上記の泣き寝入りも、悲しい想いも、抹殺されていく。(あ、私はマスコミ嫌い人間ですから、しょせんマスコミもそういう大勢に都合のよいことしか報道しませんから意味はありまんせん)。

そんな社会の方が悪いのか?

よくも悪くもどっちでもよい。その中でどのように「私」を維持していきていくか。それが一番大事な気がしてきます。

という、愚痴のような、憂さ晴らしのような日記なのでした。


2007/10/17/(Wed) 単純に嫌いです

ゲーム脳 というもののぜひが議論されたのは数年前でしょうか。

そういう難しい話は抜きにして、私は基本的にゲームを過度にやることはもちろんのこと、なんでもゲームにすることがどうも好きになれない。

私自身、そうはいうものの、私の世代としては超先進的なゲーム人間だった時期があります。両親が飲食店をやっていたので、風俗営業法の指針ぎりぎりまでゲームをおいていて、それをいわば自由にやれる時期が、小学校3-4年生ころにありました。あのころはゲーム三昧。そして、たまたま最先端のテレビゲームを、ほとんど自由に買ってもらえる環境もあったので、中学2年くらいまでは、いまでいえば、ゲーマー、おたく、の域をこえるような程度にゲーム三昧でもありました。家庭環境からしても、22時くらいから28時くらいまでは自由時間でしたから、やり放題!

ただ、そういう経験があってのこの偏見です。ゲームやりつづけたら、人間はおかしくなります。ただ、これは、経験的な「感想」ですから、科学的根拠はありませんが、でも、経験的に、おかしくなる!

と、自覚して、実は、ピタっとゲームをやらなくなったときがあります。高校生のころは忙しくてゲームしている暇がなかった、といえばそのとおりで、友人の家に遊びにいって、ファミコンにはまっている友人をみて、「あーあ、かわいそうに」と素直に思ったものです。でも、誘われれば、普通にプレイしていました。

でも、PC9801 を買って、パソコンを使うようになり、J3100SS を買ったころでしょうか。特にJ3100SSは、フリーウェアに頼るほかない、ソフトが貧弱な環境でしたから、いくつかフリーのゲームも楽しんでみました。でも、結論的に、ゲームやっていてはおかしくなる。と、実感したのです。

以降、ゲームは最低限度、そう、1日15分程度が限界で、現実にそれ以上やっていません。あ、ここでいうゲーム、というのは、テレビゲーム含む、パソコンなどを用いたものです。ボードゲームのようにアナログなのは除く。

だから、最近、電車や新幹線に乗っているとゾッとします。

PS という奴? あるいは NDS という奴でなんでしょうか。興味がないのでわかりませんが、それを1車両で10人に近いくらいの人がいじくっている姿が。まして、最近のテレビCMは、そのゲーム機のソフトで、しかも「脳トレ」と、あたかも「脳にいい」と印象づけるようなソフトの宣伝ばかり。いや、仮にそのような訓練や視覚、聴覚の刺激が良いとしても、ゲーム機でやっていいはずはない! と、合理的根拠はありませんが、私は無意識に、強く激しく、大きな、果てしない拒絶反応をかんじます。

古い人間なのかもしれませんが、たとえば、文章の推敲は、私はワープロの画面では昔からできません。だから無駄でも一度印刷してチェックします。画面でみているというのは、何が原因かわかりませんが、どんなにバーチャル的に紙の原稿をみてチェックするよりも、ミスが多くなるのです。最近は、付箋をはったり、赤をいれたりすることができるソフトもありますが、どうしても紙+鉛筆にすらそれらは私にとっては勝つことができないツールです。視覚的には、紙+鉛筆よりも目立つし、わかりやすいはずなのに、画面上ではダメなんです。

だからゲームはもちろん、画面上でのトレーニングは、ぜっっったい無意味だ。いや、なにか効果があっても、それ以上にマイナス要素がある。そう、信じて疑わない人間でもあるのです。

これって、IT化に逆行しているんでしょうか。

なんでもIT化、というのは、私は当初より拒絶反応があります。仕事でいえば、なんでもインターネット申請、インターネット入札‥。環境が整えば誰でも便利になる、ということで、IT以外では受け付けない、という取扱すら最近は出てきています。でも、それって何か違わない??

12-3才のころ、「マイコン」にはまっていた友人に違和感をおぼえたことがありました。しかし、17才のときにワープロ購入を計画し、18才からワープロを使っています。19才のときにPC9801を買って、以降、ずっとPCを使い続け、廻りからは、パソコンには習熟しているかのようにみられています。たしかにWindows のブームでにわかにPCを使い始めた方よりは、パソコンは使いこなしているかもしれません。でも、実際は、使いたくないけれど仕方なく使っているし、脳トレやPCを使った無理やりな合理化には、いつも疑問を感じています。そう、タイトルのとおり、単純に嫌いなのです。

1987年にパソコン通信をはじめ、ワープロ年賀状をだし、1989年にMIDIを駆使してプライベートながら自作自演の歌集をつくり、Win3.1 時代からインターネットを使い‥というところからは、何をいっているんだ? と言われそうですが、いま現在、PCやITに、本当の価値観をいまだに発見できていませんし、デジタルテレビやCG花盛りのエンターテイメントに、どうしても危惧感を感じる私は、矛盾しているでしょうか。。

と、単純に、素朴に感じるこのごろです。


2007/10/02/(Tue) 民営化郵便局。何もないと思っていたが

タイトルのとおり。私の生活、仕事の上では影響ないと思っていたのですが。

結構、郵便小為替って、買いだめをしています。が、今回は偶然、そこを切っていたために、2日、さっそく何枚か購入にいきました。結構、市役所に戸籍や住民票請求で使うんですね‥。

そしたらなんと! 小為替の発行手数料が、民営化にともなって、従来比10倍! 以前は1枚10円だったのが、今度は100円になったそうです。

そんなのたいしたことない、という方は‥

小為替は、いまは、50、100、200、300、400、500、1000円しかありません。まず、50円の小為替が、手数料100円って、そもそも‥。

750円送金したい場合なのですが、これが、500+200+50円で、300円の手数料がかかることになります。まぁ、お釣りをくれるところならば、1000円を1枚購入して、相手に200+50円で、200円の負担をさせればいいや‥などと、ずるいことも考えるのですが。

が、もっと驚いたことに今度は、「受取人を指定して送ってください」とのこと。

以前は、受取人指定欄は、指定しないのがむしろ普通でした。一度、市役所からのお釣りとして送られてきた小為替に、その市役所の名前が受取人欄に書き込まれていて、使えないことがありました。50円の小為替だったので、交換を請求するために郵送すれば160円かかります。で、なくなくあきらめたのですが。

この、受取人を指定するのは、誰も同じですから、たとえば、上記のとおり、私が750円を送金するために1000円分を送ったとします。そうすると、返す方は、200円+50円で2枚必要なわけですが、市役所のように小為替がたくさん送られてくるところでは、別に送られてきたものを組み合わせれば、250円くらいはすぐに用意できるはずです。実際、6カ月以内有効なのに、5カ月以上前のものでお釣りをくれる市役所も結構ありました。が、受取人指定にするということは、これができないことになります。私に250円返すためには、市役所の手許には、受取人を市役所に限定した小為替しかないことになるから、私に送るために、わざわざ新規に250円購入して、さらに、私の名前を受取人指定欄に書いてだすことになります。

そうすると、株式会社ゆうちょ銀行は、発行手数料を10倍にし、有効期限内ならばいままでは使い回していたところ、いちいち受取人指定するので、すぐに換金しなければならず、手数料を支払うべきタイミングが急増することになります。

これ、儲けすぎじゃない??

郵便法を改正して少額現金を普通郵便でも送っていいことにするとか(保障がないのは仕方ないとしても。小為替だって、保障はなかったわけですから)してくれないと、株式会社ゆうちょ銀行だけを儲けさせることになりやしないか。

そもそも、戸籍や住民票の請求は、自治体が電子申請&電子納付に対応しないのがおかしい。これらに対応していれば、こんな馬鹿らしい(いままでも、いわゆる本局以外は、15時まで、というわけのわからない制限がありましたから)小為替を「購入」しなくてすむわけです。

なんとかなりませんかねー。これは。


2007/09/11/(Tue) 6年目の9.11

6年前の9月11日は水曜日でした。

それは、火曜日。合唱の練習をおわって帰宅して、テレビをつけると、ジェット旅客機がビルに衝突した模様、という趣旨のニュース速報。この言葉をみて、「下手なパイロットの事故」あるいは、日航機墜落もよぎって、操縦不能になって、パイロットが精一杯人影のない山に墜落する道を選んだのに叶わなかったのか‥と、思いました。が、いずれにしても、ビルに飛行機が追突するなんてナンセンスな。そんな気持ちで寝たのです。

翌朝、テレビはどれもこれがテロだったことを報道していました。

だから、水曜日、ということをよくおぼえているのです。

テレビはあいかわらず、母がみているのを横で「聞こえているだけ」で、真剣にみることはほとんどありませんが、昨日のテレビで、「アメリカの戦争ではない。(日本人も犠牲が出て、日本が狙われる可能性があったのだから」日本の戦争なんだ、という趣旨の発言をしている、政治家なんだか評論家がいました。

なんと、怖い発言だろうか。

日本は少なくとも憲法上は戦争を放棄しているはず。なのに「日本の戦争」という意味の言葉が、それなりの有識者から出てくるなんて。

阿部さん、憲法改正なんていりませんよ。どんどん解釈で改正している。
そのうち、「このままだと攻め込まれるから、自衛のために先手を打ちました」という解釈もなりたって、戦争に積極的に参加していくのが日本の姿ではないでしょうか。

日本は、「実質的意味の憲法を実質的にもっていない国」と、なんとなく思い続けているのですが、こういう解釈がまかりとおりかもしれない状況である以上、やはりこの「なんとなく」の見解も外れてはいないのか、と不安にもなります。

もちろん、テロも許されるものではありません。でも、私はテロを撲滅するという考えや発想も、それがテロリストの生命も奪うものだとすると疑問です。ましてや、それを戦争だ、というのであれば。

9.11で朗読されたという“Do not stand at my grave and weep”。朝は起こしてくれなくても、夜は見守ってくれなくても結構です。

世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない。

これだけを期待します。

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