私は、核兵器はおろか、戦争はどんな理由があろうとも許されるものではない、という考えの持ち主です。じゃあ、自分が戦争で攻められたらどうするのか。そのままやられます。無抵抗主義、などというかっこいい考え方とは別です。だから、有時を論じる必要性はない。有時になったら、やられるだけです。でも、仮に60億の人間、全員がこの考えにたったならば、戦争はおきないはずです。
と、いう極端な私の意見は別として。
世間常識的にいえば、原子力発電所は、「事故があってはいけない」のだけれど、それでも事故がおきたときの補償に関する法律があり、保険があり。事故がおきたときの対応方法が考えられて、マニュアルにもなっている。だから、「あってはいけない」から直ちに全て、議論してはいけない、という理屈はなりたたない。
ただ、「おきてはいけない」のラインは、社会の成熟というか、おかれている立場で変化するものです。高度に現時点では考えられないほど、冤罪の危険がなくなる仕組みが考えられ、それを社会が認めれば、再審制度とか、刑事補償の制度など、論じる必要もなくなることでしょう。そういう合理的根拠があるかないかではなく、政策にもよります。戦後直後の日本の刑事政策は、それまでの冤罪事件への反省もあって、やや政策的に、極端に冤罪を起こさないようにする考え方が牽引車になっていた、と私は思っています。そして、社会もそれを望んでいたところ、最近になって、かりに冤罪が発生しても、それ以上に被害者救済、それ以上に特別予防が必要なんだ、という方向にシフトしたのが現在のように思います。最近の痴漢に対する政策、DV法の存在、そして、何度か国会を通過せずに保留になっているままの人権保護法…。後二者は刑事司法ではありませんが、行政権が権力を発動し、国民が間違いによって犠牲になることがあるのを承知で、それ以上の価値観(暴力を受ける配偶者を救う、特定の要件下での人権侵害をふせぐ)を優先しているのではないかと感じます。
で…核保有の論議は、この数日のマスコミの取り上げ方をみると、やむをえず、そして、日本も核兵器をもつ場合もあることは認識しなければならない、という論調にみえます。上記の考えに照らしてみると、それだけ社会が核兵器を認容する方向にむかったり、それをやむなしとするほどに情勢がかわった、ということでしょうか。だとすると、もはや止められない方向に向かってしまったのではないかと思えるだけ、残念に思います。
極論ではありますが、現代社会で、「快楽のために人を殺してもよいか」という議論は、おそらくは誰もが否定するでしょう。それは、殺人がそれだけ(正当防衛などの特殊な場合を除いて、快楽のためという理由では)絶対的に悪だ、という認識があるからだと思われます。「核をもつことがよいか否か」を論じることすらいけない、という考え方は、それだけ絶対悪ととらえているからです。そこで、「もつかもたないか論議することすらいけないというのは行き過ぎた」という発言を、ある程度の地位の政治家がするようになり、それを評論家が肯定し、国民も賛同するならば、「核をもつ」ことの「悪さ」の程度がかわってきた、ということではないでしょうか。
こう考えると、残念というか、怖いというか。それこそ、いよいよ戦争に日本がまた突入することを前提に人生設計しないといけないのか、と考えてしまいます。年金が払っただけかえってこない(のは、別に悪いことだとは私は思っていません。年金は世代間扶助の制度ですから、金持ちがたくさん厚生年金を納めて、60才以上にそれを回収できなくても、扶助なんだからおかしい現象ではないし、前にもこの日記で書いたように、遺族年金、障害年金を、生命保険や障害保険と看做してかんがえると、決して悪い制度ではないと思いますので)なんてことは、些細な、どうでもいいことになるのかもしれません。
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