最近の私的の雑感

不定期・不確実の、妄想・幻想・感想 etc.

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2006/11/13/(Mon) 核兵器の議論はよいか否か

私は、核兵器はおろか、戦争はどんな理由があろうとも許されるものではない、という考えの持ち主です。じゃあ、自分が戦争で攻められたらどうするのか。そのままやられます。無抵抗主義、などというかっこいい考え方とは別です。だから、有時を論じる必要性はない。有時になったら、やられるだけです。でも、仮に60億の人間、全員がこの考えにたったならば、戦争はおきないはずです。

と、いう極端な私の意見は別として。

世間常識的にいえば、原子力発電所は、「事故があってはいけない」のだけれど、それでも事故がおきたときの補償に関する法律があり、保険があり。事故がおきたときの対応方法が考えられて、マニュアルにもなっている。だから、「あってはいけない」から直ちに全て、議論してはいけない、という理屈はなりたたない。

ただ、「おきてはいけない」のラインは、社会の成熟というか、おかれている立場で変化するものです。高度に現時点では考えられないほど、冤罪の危険がなくなる仕組みが考えられ、それを社会が認めれば、再審制度とか、刑事補償の制度など、論じる必要もなくなることでしょう。そういう合理的根拠があるかないかではなく、政策にもよります。戦後直後の日本の刑事政策は、それまでの冤罪事件への反省もあって、やや政策的に、極端に冤罪を起こさないようにする考え方が牽引車になっていた、と私は思っています。そして、社会もそれを望んでいたところ、最近になって、かりに冤罪が発生しても、それ以上に被害者救済、それ以上に特別予防が必要なんだ、という方向にシフトしたのが現在のように思います。最近の痴漢に対する政策、DV法の存在、そして、何度か国会を通過せずに保留になっているままの人権保護法…。後二者は刑事司法ではありませんが、行政権が権力を発動し、国民が間違いによって犠牲になることがあるのを承知で、それ以上の価値観(暴力を受ける配偶者を救う、特定の要件下での人権侵害をふせぐ)を優先しているのではないかと感じます。

で…核保有の論議は、この数日のマスコミの取り上げ方をみると、やむをえず、そして、日本も核兵器をもつ場合もあることは認識しなければならない、という論調にみえます。上記の考えに照らしてみると、それだけ社会が核兵器を認容する方向にむかったり、それをやむなしとするほどに情勢がかわった、ということでしょうか。だとすると、もはや止められない方向に向かってしまったのではないかと思えるだけ、残念に思います。

極論ではありますが、現代社会で、「快楽のために人を殺してもよいか」という議論は、おそらくは誰もが否定するでしょう。それは、殺人がそれだけ(正当防衛などの特殊な場合を除いて、快楽のためという理由では)絶対的に悪だ、という認識があるからだと思われます。「核をもつことがよいか否か」を論じることすらいけない、という考え方は、それだけ絶対悪ととらえているからです。そこで、「もつかもたないか論議することすらいけないというのは行き過ぎた」という発言を、ある程度の地位の政治家がするようになり、それを評論家が肯定し、国民も賛同するならば、「核をもつ」ことの「悪さ」の程度がかわってきた、ということではないでしょうか。

こう考えると、残念というか、怖いというか。それこそ、いよいよ戦争に日本がまた突入することを前提に人生設計しないといけないのか、と考えてしまいます。年金が払っただけかえってこない(のは、別に悪いことだとは私は思っていません。年金は世代間扶助の制度ですから、金持ちがたくさん厚生年金を納めて、60才以上にそれを回収できなくても、扶助なんだからおかしい現象ではないし、前にもこの日記で書いたように、遺族年金、障害年金を、生命保険や障害保険と看做してかんがえると、決して悪い制度ではないと思いますので)なんてことは、些細な、どうでもいいことになるのかもしれません。


2006/11/13/(Mon) 子供は社会の鏡

って、言葉がありましたね。もともとはどなたの言葉なんでしょう、私はコマーシャルでみたおぼえがあるだけなのですが。

そうだとすると、実に明快。たとえば、こんな子供の問いかけに、きちんと答えられますか?
●なぜ、イジメがあるの?
 大人の社会にイジメがあるから。
「いじめっていけないことなの。だって、大人もやってるじゃん」という問いかけに。

●自殺はなぜいけないの?
 大人だって自殺するんだから、子供がしてもいいじゃない。

 学級崩壊だって、職場崩壊や家庭崩壊の鏡では?

 最近、子供のこういう問題を取り上げる雑誌や番組が多いように思いますが、子供の問題なんて、大人がしっかりしなきゃなおりませんよ。それとも国会議員の皆さん、社会問題を子供の問題にすりかえて、選挙の得票稼ぎでもしているんでしょうか。


2006/10/29/(Sun) 阿部さんのお手並み拝見!

教育についてがテーマの阿部政権。でも、さっそくいろいろおきていますねー。お手並み拝見、というところでしょうた。

必修科目のごまかし問題は…複雑ですよ、しかし。ごまかしていなかった学校の生徒からみると、同じ土俵で受験は不公平と感じるでしょう。生徒が希望したから? という学校の弁明もありましたが、生徒が希望すれば、授業もかえてしまうんですかねー。私が学生・生徒のときも、受験に関係ない理科の実験をなくせ、とか、いろいろ意見はありましたが、受験のための勉強なのか。果ては就職のための勉強なのか。たかだか受験の公平とか、たかだか今年の高校3年生が卒業できるかどうかではなく、根本を揺さぶる問題でしょう。まさに、お手並み拝見! 私見としては、受験戦争は否定しません。受験至上主義がいけないだけで、受験に勝った子供を評価してあげないのは、アンチ受験至上主義で、これも偏って意見だと私は思っています。でも、こういうのって、数値化できないし、政治には利用できないから、抹殺または黙認ですかね>阿部首相

自殺する生徒がつづいています。こういうのも、つづかなければ問題として取り上げられないわけで。たまたまというか偶然というか。こういうときだけ取り上げたり議論するマスコミも、国民も感情的なだけでは。
でも、これ、学校だけの責任でしょうか。自殺するほどのいじめがあるならば、それに気づかない家庭ってもっと問題では…。それをさておいて、学校だけを責めるとは。
それに、こういうことを打ち明けられる友達はいなかったのか。いなかった自殺してしまった子供には責任はないと思います。打ち明ける友達ができるような環境で育ててもらえなかったことが問題では。その環境を作ったのは…私をふくめた日本国民全体です。
昨年のJRの事故でなくなった女子大学生のお父様が、「誰の責任でもない」と、インタビューにこたえてらっしゃいました。自分に言い聞かせて、自分を納得させるかのように。誰かのせいにすると、簡単なんですね。とくに当事者以外は。誰かが悪いとかきたてたりいいたててれば、雑誌も売れるだろうし、視聴率もあがるだろうし。そうやって、ロクな分析もせず、真剣に向き合わず、形式だけのこたえを積み重ねて、ますますゆがんでいくのでしょう。そうすると、このなくなった女子大生のお父様の発言は、あまりにも重いし、あまりにも確信をついている…。

そういう社会に生きているのだから、そこではたして自分はなにをするべきか。何もできないだろうけれど。ますます難しい問題です。


2006/10/26/(Thu) 新聞をみおとしましたが

母が、昨年12月からデイサービスを受けていました。あわせて、訪問介護としてお掃除などしてもらっていたのですが…ここが、なにか不正があったということで、認可取消の処分を受けたということです。新聞にも大々的に出たそうですが、見落としていました。だから、どんな不正が理由で取り消されたのかは知りません。

でも、あまりにも処分が急なのはなにか納得ができません。

たとえば、今週火曜日は、デイサービスにいく曜日だったので準備をしていたのですが、まったくお迎えがこない。そこで、電話をすると、すでに今週からお迎えにはいけなくなった(とりけされたため)とのこと。なにそれ? きいていませんよ!

いろいろきいたところによると、不正の疑いがあるので、調査や立ち入り検査の機会は、数カ月前からあったそうです。でも、それに応じなかったので、今月一気に「手入れ」がはいって、即、認可取消、営業も早急にやめなければならない、ということになったそうです。

これがたとえば、利用者を虐待していたとか、不適切なサービスが常時行われていたということであればやむをえません。しかし、今回はどうも、事務上の不正のようです。そうだとすると、ここまで早急に、しかも利用者に事情の説明はおろか、母のようにお迎えがくることをまっているのに、その日からサービスが受けられないことを通知すらされないほど突然に営業を止める必要はあったのでしょうか。
利用者同士ではそれなりの「お友達」もあり、高齢者が多い分、職員と急に分かれることになることを悲しむ方も多かったようです。そうすると、せめて、施設でお知り合いになった「お友達」同士、「また会いましょう」とばかりに、連絡先の交換をしたり、職員の皆さんと「お別れ会」をしたり。いや、少なくとも、きちんと説明をしてからサービスを停止するくらいのことがあってもよかったのではないかと思います。

利用者だけではなく、ここの職員さんも、わずか半月の間に職を失うことになります。そして、この業界は世間が狭いので、「問題のあった施設に勤務していた人」というレッテルが貼られて、なかなか他の施設に再就職できないという事情もきいたことがあります。おそらくは、今回もそうでしょう。ならば、認可取消という処分をくだすとしても、利用者も、職員も責任はないわけですから、通常の移行期間くらいは営業を認めて、たとえば、3か月以内に移行をすませる、くらいの配慮があってもよいのではないかと思います。

このような、行政の変な方向で厳しすぎる処分に(厳しくするのは仕方ないと思いますが、厳しくすることで、間接的にこのような不利益をこうむったり、悲しみを大きくする人がいるのです。処分の緊急性とこれらの負担をぜひ、比較衡量してほしいと)疑問を感じるとともに、このような施設を経営をする方の法令遵守の必要性を強く感じます。法律では、単に取消処分だけかもしれませんが、道義的責任は、このような、利用者本人、その家族の負担や精神的な苦痛、そして、職員とその家族…と考えると、刑事罰を科してもまだ足りないとすら思います。

今年の介護保険関係の法改正は、その理念がいかされるならば、良い改正だったと思います。しかし、総論は良いとしても、具体策(各論)はめちゃくちゃと感じることばかりです。「支援」と「介護」を区別することも必要だと思いますが、実態は、そんなに明確に区分できるものでもないし、「支援」といっても、名ばかりのサービスと感じる側面がたくさんあります。

きっと、年ン百万も、親族の介護につかえるから、介護保険なんて関係ない、という方々がこの制度を作っているのでしょうから、現場、利用者、その家族の不便とかは関係なく、白書とか、各種統計にあらわれやすいところだけ改善すれば、きっと満足なのでしょう。

(追加情報)
母のいっていたデイサービスがどのような理由で処分を受けたのかわかりました。また、いくつかの問題点も聞くことができました。
このサービスのやっていたことは、法律には明らかな違反です。でも、デイサービス利用者のニーズという点では、100%以上適合していたように思います。医療と介護は別モノなのでしょうか。
法律に違反していたことはたしかですから、処分は仕方ないし、積極的にするべきだと思いますが、他方、このような利用者のニーズを組み入れたような、制度改正をあわせて期待したいところです。


2006/10/05/(Thu) プチ作曲家?

http://www.lp21.net/cgi-bin/mem/gyo/topics.cgi にも、業務上の雑感を書いていますが、この2006年8月31日の書き込みをまずはご覧ください。

いよいよ今度の日曜が、ここにも書いてある、群馬県合唱祭です。本当に遊び心満タンで作った私の編曲作品が、ここで、聴衆 ? 人の前で歌われる瞬間です(^^) … 群馬県合唱祭の毎年の問題点として、歌うばかりで聴衆がいないというものがありました。例年ですと、せいぜい数十名。でも、今年は、「参加者は他団体の演奏をききましょう」と、半ば強制的に観客席にいるそうですから、2-300名にはなるのでしょうか。

上記の参照サイトでも曲名は公開していませんが、宴会の場で、古くから歌われている「デカンショ節」を、混声合唱に編曲したものです。今所属している合唱団の一つが、「でかんしょ合唱団」なので、これにちなんで、デカンショ節を編曲してみたのでした。

その過程で、篠山市、デカンショ節保存会などに問い合わせして、著作権の確認をしたのが、上記の参照サイトの内容です。

今でこそ、「趣味:合唱」と名言していますが、生まれてから今まで、音楽との接点を振り返ると、演奏するよりも作る方がウェイトがおおきい人生? を過ごしてきました。まったく音楽の勉強をしていませんから、感性だけ、しかも、記譜法すら知りませんから、考えて作って、それっきり。だから、数年たつと再現できないのが私の「作品」たちです。処女作? は、3才のときの「ちびのうた」。これは、オタマジャクシは書けないものの、自分なりに考えた記譜法(というのだろうか。階名と、音の長さを数字で表したものでした)による「楽譜」が残っていて、処女作だけに記憶にも残っているので、今でもそれらしいものは歌えます。でも、このあとの私の「作品」というと、中学のときに、知り合いの当時音大生(武蔵野音大のピアノ科の方でした)に、採譜していただいたものが再現できる程度で、ほとんど記憶の彼方に消え去っています。そんなでも、作る楽しみが、私の音楽の楽しみでした。

そんなだから、19才のときに、まだ、10万もした、パソコンの「作曲ソフト」をかって、MIDI の初期? といえるような機械で、「創作」をしていました。ただ、MIDI 関連ソフトは、あまりにも面倒! なので、MIDI 入力したものは、またまたほんの一部ですが、このころ以降の作品は、いくつかは残っていて、今も再現または演奏することができるようになっています。

こんな歴史? をへての、今回の「デカンショ節」。ただ、今まで、トータルで3曲だけは、人前で演奏したり披露する機会がありました。が、自分以外の人が一緒に演奏してくれる機会は、始めてです。だから、今回、「プチ作曲家」気分も体験することができています。

合唱団を指導してくださっている先生は、ほんとうに、感謝の言葉もないほど、こんなド素人の作品を真剣に解釈して、しかも、その解釈は、音楽としてどうか、ではなく、「編曲家の意図」を組むように取り上げてくださっています。そのことが、歌っている側にいても感じられるだけに、感激の極みです。そして、指揮者指導者というのは、作品をこうやって解釈するんだ、というのが見え隠れして、その点もこの歌をうたっていて、楽しみの一つになっています。

他方…その先生のご指導の下、肝心な合唱団が、それに対応できないことがしばしば。そうすると、編曲に無理があったのではないか、音楽的にみたときに、無理な音づくりをしたのではないか、という不安も出てくる一方、「せめてこのくらいは、表現してほしいな」という気持ちが現れる瞬間もあります。正直、こんな練習不足では、人前で歌える段階じゃない、などと思ってしまうときもあります。

また、ちょっと音域的に厳しい部分があります(たとえば、ベースで G がつづくとか、ソプラノに As が出てくるとか…素人合唱団には厳しい音です)。でも、真剣にその音を正確にだそうと、練習で一所懸命な姿をみると、「こんな音をいれてごめんなさい」「こんなに真剣に取り組んでくれてありがとうございます」と思ったり…。

そんな中、私も合唱団の一人として歌っていますが、熟知している歌だけに、意図とおりのハーモニーや表現が聞こえてくると、なによりもうれしく感じてしまいます。

かねてから、「合唱をやるときは、自分で曲も書いてみるといい」と、よく仲間内には話してきました。それは、作曲家の意図をくみとる練習にもなるし、ある程度は音楽理論も自然と勉強するからです。でも、今回ほど、嬉しいと思う瞬間、申し訳ないと思う瞬間…と、いろいろな経験をするのは始めてのことです。

さてさて、そんな中、8日はどんなふうになるのでしょうか。

群馬県合唱祭は、10月8日、前橋市民文化会館大ホールです。よろしければ、いらしてください。


2006/09/29/(Fri) 本物体験と想像力

今朝のワイドショーで、お仕事を体験できる子ども向けテーマパークを取り上げていました。企業実名でのテーマパークだけに、これはいい宣伝になるんだから、入場場なんかとらなくてもなりたつんじゃないかな、などと思いましたが、有料のようです。

ただ、これ、キャスターその他は絶賛していましたが、本当にいいのかなー。お金かけないで遊ぶこと、何もないなかで遊ぶことは、子供にとっては大事なのではないかと、ふと、子供のときの遊びを思い出しながら感じます。

リアルな体験をすればするほど、想像力はやしなわれないのではないか。
でも、仕事の仕組みを体験することはよい教育だ、ということですが、仕組みは、想像力で補って学ぶ部分もあるのでは? と、個人的体験から思います。

いわゆる「ままごと」。「○○ごっこ」を、お金払って、企業が作った施設で体験するだけ? とまでいうと、このテーマパークを体験していない人間がいうと、言い過ぎでしょう。

でも…。
小学校入ったばかりのころかなー。「お店屋さんごっこ」を友達としていました。今でいう「雑貨屋」を私はやって、親戚が「洋服屋」をやっていました(さすが、女の子?)。
当然、雑貨屋の私も洋服を買いにいきます。「くださいな」「なににいたしますか?」 みたいな会話があります。そんなふうに、お互いにお互いのお店にいって買い物を続ける。そんな遊びでしたが…1時間くらいたつと、この遊びは破綻します。

雑貨屋さんは、せいぜい商品のかかくが100円程度。他方、洋服屋さんは、1000円前後の商品です。そして、消費者側にいましたから、人のいい私は、よくおまけをするし、値引きをします。すると、他のお店に買いにいきたくても、自分の雑貨屋さんの売上(ただ、ここはまさにリアルではない。仕入れとか、販売管理費という概念はないので、売上から控除されるものはなにもなく、そのまま生活費になります(^^))では、洋服を買いにいけないのです。「経営難」になった雑貨屋さんは、他のお店と提携します。そして、セット商品で、売上を按分する、なんていうアイデアを思いつきました。でも、しょせんは100円単価のものですから、やはり最後は破綻です。

そんなことを、ままごとを通じてでも体験しています。
よくこういう遊びをしていたので、こんなことを体験してからは、後には、問屋の役割をする友人が出てきたり、「お金もちのお店」(=高額商品を売っている店になります。小さいコミュニティーなので、高くても「近所付き合い」で買いにいきますから)の友人が、そうでないお店に資金援助をしたり、お金を貸したり、という現象? も生まれました。さらには、高いお店には、安いお店の人が団結して、「値下げしないと買ってあげないよ」と、不買運動らしきことまで。

経済も経営もなにもしらない子供の遊びでしたが、「お店屋さんごっこ」も、続けていくと、こんな発展? をとげていきます。

お金を払って、テーマパークにいったり、リアリティあふれる映像のゲームを買い与えるより…。よほど貴重な体験だし、勉強になっていたなー、と回顧するのでした。


2006/09/13/(Wed) 細木数子さんによれば

母が、案外細木さんにはまっています。その関係で、母に先日、『平成19年版六星占術による…』を買ってきました。で、ついでといってはなんですが、自分の運命星のそれも買ってきてみました。

うーん、過去を振り返るとそのとおりだなー、とおもうことがかかれています。細木さんは占いではないとおっしゃっていますが、占いはあたるも八卦あたらぬも八卦。当人の解釈に左右されるところも多々ある、というのは私の基本的な考えですが、「解釈のしようによっては、過去はあたっている」ということならば、なかなか、やるじゃないですか、細木先生! という気もしてきます。

で…過去はよいとして、将来は。来年は要注意だそうです。そして、平成23年から「大殺界」ということです。

仕事に目を向けると、どちらにしても、油断せず、引き締めていこう、という意味では、この「警告」には素直にしたがいたいところ。これは、信じる信じないということよりも、戒めとして受け止めておきたいところです。

ちなみに、結婚とか恋愛に関しては、来年はNGだそうで…。ま、今よりは悪くなりようがないですが、来年決めることはいけないとのことです。他のほとんどの占いでは、私はお付き合いするのは年上がよいとのことですが、もし、来年をさけると、再来年のお相手の年齢は、41才以上になります。あー、現在の紀子さまよりも年上なんだ…などと、ふと、悠仁さまのニュースを聞きながらおもうのでした。

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