最近の私的の雑感

不定期・不確実の、妄想・幻想・感想 etc.

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2008/01/05/(Sat) こども関連みんな嫌い!

どこの国だったか、電車などには「こども料金」はなくて、体重だか身長で料金を区分しているというのを聞いたことがあります。

最近電車にのったり、エレベーターに乗って思うのは、「抱っこやおんぶはの乳幼児は無料でも良いとして、ベビーカーに乗っている乳幼児は、こども料金くらいとれよ!」ということ。
乗り物の中での専有面積は、大人のそれよりも大きいです。だいたい、あれは手荷物だろうに。そうすると、畳んでいない限り、鉄道で料金を求められる手荷物の大きさには該当していないのだろうか。

まぁ、それも、「すいませんねー」という雰囲気だったり、形式的にでもそういってくれる親がそばにいるならば、そんなことも思わないのですが、「そこのけそこのけお子さまが通る。邪魔な大人は出ていけ」みたいな雰囲気の親子にあうと、ますます思います。

子供に寛大すぎるのでは、というのはこの日記でもだいぶ前に書きましたが、子育てに寛大すぎる、甘すぎる、ちやほやしすぎじゃないか、と最近は追加です。

もともとだから、子育て支援政策はどうも支持できない、といつも思ってます。ちょっとくらい税金を安くしたり、料金割引をしたって、子育てに気持ちが向くとはとても思えませんから。もっと根本的なことから改革しないと。

それに、そもそも支援政策は、不合理な区別=差別ではないだろうか、とも思います。たとえば最近は、自治体が援助して、子供のいる家庭に割引をするお店の登録だか指定をする、というのが、高崎市でもあります。子育て家庭が家計が大変で、子供をたくさん産んでほしいし、育てて、最終的には市町村の人工を増やしたい、という政策なのでしょうが、子供を生みたくても(という表現をすると女性だけになってしまう。子供をもちたくても)もてない人も、病気の問題、家庭や仕事の問題、経済的問題、その他で、少なからずいます。そうすると、子供をたまたま生んだりもった人だけ優遇するのはどうも納得いかない。子供を生まない、もたない大人は邪魔だ、というようにすら感じてしまう(子供を生めない女性に不適切な発言をして失脚した政治家がいましたが、女性だけではないですよ)。

今日もファミレスで昼食をとっていたのですが、最近席を選ぶときは、煙草は嫌いですが、煙草よりも子供(と高校生)の近くでない席を選ぶようになりました。煙草は仰いだり扇風機をまわせば(私は煙草対策でときどき持ち歩いているのですが)さけられますが、ガキのうるさいのはどうにもならない。そして、「うるさいなー」という顏をしようものなら、「“将来ある”子供のことなんだから」とでもいいたそうな親の顏。(そんな親に育てられた子供に将来なんかあるか! という感情論は抜きにしても)子供も社会にでれば社会のルールにしたがうべきだし、騒いでいいところといけないところの区別がつかないうちは、連れ出すな、と言い返したくなる。そして、それをしつけることもできないバカモノめ。と、ついつい感情的になったりもするわけです。そして、今日は、なんと、主婦友達が待ち合わせでもしていたのでしょう。遅れてきた親子の子供(1−2才くらいかなー)は、なんと、入店から15分も「帰る、帰る、帰る」と、帰る以外の言葉を一つもださずに連呼する始末。ようやく一度店の外につれだしていきましたが、そののち5分くらいして私もかえるときにみかけたところ、まだ、外でも「帰る帰る」を繰り返していました。あそこまでして帰らないで子供につきあわせる神経っていったい‥。あれも立派な子供の虐待じゃないだろうか。

そんなこんなで、子供を注意しない、子供のことだからうるさいこというなよ、という雰囲気の親が大嫌いです。でも、坊主にくけりゃ‥、という言葉のとおり、そうなると、子供自体も嫌いになるし、それを支援する人も、社会も政治も、みんないやになってきます。

そういや、同世代との付き合いが減ったのも、子持ち家庭が増えてからだなー。

タイトルのように感じないで過ごせる共生はできないものだろうか。


2008/01/04/(Fri) コンビニと京都議定書

コンビニの営業時間を短縮すると、CO2排出がへるとかへらないとかで‥。ニュースで紹介されていました。

コンビニ業界の反論もあったそうで、それも一応ごもっとも。たしかに、そんなに画期的な削減にならないと思うし、利便性とか、社会生活の変化を考慮すると、あまり得策には思えない、というのが「感想」です。

が、この日記でも書いたかなー。そもそも夜おきている人がへれば、かなりのエネルギー節減にはなる、と常々思っています。そして、これができたら、コンビニも営業時間を制限することで、効果があがるかも。ようするに、コンビニだけ短縮しても効果がないだろうと、いうのが、私の想像です。

で、いつも思うのが、そもそも夜更かしさせなければいい。効果があったかどうかわかりませんが、ン十年くらいまえにエネルギー問題がおきましたが、あのときは、テレビ局が自粛します、と、深夜番組をなくし(といっても、あのころは、そんなに深夜番組はもともとなかった。25時ぐらいまでの放映を、23時くらいまでにしたのがほとんどだったと記憶しているのですが。ちなみに、だから、24時間テレビは画期的なイベントだった。いまや、24時間テレビを放送しない方か画期的で、募金も集まるのでは‥と思うほどですが)、結果として、そこそこの効果はあったというニュースもみた覚えがあります。そののち、バブルが訪れ、おかまいなしに24時間、深夜まで遊びまくって‥。その流れにのれば、当然テレビも自粛をやめたわけです。

で、大切、不可欠、すばらしい名番組が多くて放映しきれない、視聴率も深夜でもン10パーセント‥とかいうならばともかく、今、深夜番組ってやっている必要があるのだろうか。深夜までおきている人はどうせビデオくらいもっているだろうし。

だから、深夜番組を制限するほうが、コンビニよりはずっと効果があると思うのです。え、今、ビデオくらいもっているだろうしっていったのだから、効果は期待できない‥? たしかに効果はビデオの普及で少なくはなっているだろうけれど、いつもビデオみているわけでもなく、小さくはない効果はあると思うわけです。
それに、くだらない芸能人の宴会やバカ騒ぎを垂れ流し放映しているだけ、としか私にはみえませんし、制作費削減の究極は、これに芸能人ではなくて素人を出演させるだけにまでなっているようにも思います(ギャラすら払わないですむ)。テレビ局サイドも他局がやっているかはやめるわけにいかず、実はお荷物なだけなんじゃないかなー‥。

でも、夜の生活時間が長くなったのは、ン十年前とは明らかな違い。ソフトバンクの無料じゃない時間帯なんか、ぜんぜん関係ないと思っていたのですが、あそこのニーズが高いから無料にできなかった、という意見もあるし、だから、Willcomがその時間帯も無料をアピールしたわけだし。私の子供の頃は、20時過ぎたら遠慮して、21時過ぎたら緊急以外は電話はしてはいけない、といわれていたのですが、時代はかわったものだ。
(ちなみに、だから今でも夜の電話はほとんどしません。そうだ、ソフトバンクにした方がヤスイかなー‥)。

話はもとにもどって、深夜番組の制限は、コンビニよりは失うものも少なく、効果はあると思っての日記です。深夜番組だけをいうつもりはなく、夜生活や行動をすると余計に光熱費がかかるのは間違いないので(ただし、夏は除くかな)、今回のコンビニだけターゲットに環境省もいいだすのではなく、トータルで「制限」ではなく、「修正」する方策をみつけると、まだまだあるのではないかと思います。


2007/12/26/(Wed) ひさびさ合唱ネタ

ひさびさの合唱ネタ。

1月27日、第1回群馬県声楽アンサンブルコンテストなるものが開催されます。

まぁ、はっきりいいまして、関東で群馬以外、全国でも、都道府県単位で「アンコン」流行りでしたが、群馬県だけが遅れていた感じ。それに、群馬県合唱連盟が一所懸命立ち上げた、というのが現実では?

無関係かなー、などと思っていたのですが、なんと、現在所属する団体の一つが、参加することとなりました。「なんちゃって」で参加? いや、そんなことはなく‥。賞をとるとらないよりも、恥ずかしくない程度には、という雰囲気はありますが、久しぶりの緊張感のある練習となっています。

「のんちゃん(私の愛称)は大会にださせるな」、というのは、私が勝手にいっているだけなのですが、およそ、「大会」とか「コンテスト」とかいうものには、私はどうも愛称が悪いというか‥。

創部以来団体戦は毎年出ていた全国大会に、私が出た年は初めて進出できなかった高校時代とか(ちなみに個人戦では関東大会72位でした。64位までが全国大会にいけたのですが)、大学のときにも、前年世界3位のツワモノをようしながら、関東大会予選で散った経験とか。中学の部活は学校は初の全国優勝しましたが、私は人数が多いので、3チーム出場した一番下のチームの補欠の補欠の‥と書き切れない立場でしたから、無関係だったからではないかと‥。

今回は優勝しても全国大会に、というような性質ではないし、第1回だけにお祭り的要素も強いようです。でも、「恥ずかしくない程度には」というだけでも、結構、刺激的‥。

どうなっていることやら。

ちなみに、1月27日新町文化会館(あー、新町も高崎市になったんだ‥)ですので、関心のあるかたはお運びください。

(結果のご報告?)
上記のとおり、のんちゃんを大会に出すな、は、今回もやぶられませんでした。
うーん、責任感じるなー。
まるっきりあがって、最初はうわずったし。そして、審査員の先生、見事にそれを具体的に指摘されている。
途中、「あ、ここはまずいな」と思ったところを、ことごとく指摘されて。
でも、結果はともかく、そういうことにまで気をつけて練習して、本番をむかえて、というのは、なによりも勉強になりました。だから、勉強できたことに満足。

もう6年くらい前でしょうか。他の合唱団に「応援」で加わって、合唱祭にでました。そのとき、その団長さんが「先生に恥じをかかせるわけにいかない」と、おっしゃっていたのが、印象に残っています。不本意な演奏をすれば、指導の先生の評価につながってしまう、という責任感からの言葉だったのは間違いないのですが、あのころは、そのような気持ちはわからないではないものの、実感としてはありませんでした。

他方、昔読んだマンガかなー。「師匠の業が負けたのではない、師匠の業をまだ十分に体得できていない私が悪いのだ」と、試合にまけたシーンで、つぶやくところがありました。

そんな、2つのことを、今回は感じました。

そう思わせてくれるほどの先生には、なんとか、次は(ただ、それを目的としてはいけない。あくまでも結果はたまたまついてくるものです)、実を結ぶ形につなげられようにしたい、と思うのです。


2007/12/21/(Fri) ひさびさ機械ものネタだが‥

ここのところ、言いたい放題の愚痴というか、批判が続いていたので、ひさびさの機械ねた。

と、いうか、これも愚痴なんですが、いろいろ便利なので、D−FAXをもう5年くらい使っています。これの唯一の欠点が、IPフォンやiFAXからのファックスを受信できないということ。

ただ、一昔前は、IPフォンを使う人=ネットに精通している人でした。だから、ファックスがダメならば、「スキャナで読んでメールで送ってください」が通用したわけです。が‥ヒカリ電話の普及と、廉価化で、ネットに精通していない方もヒカリにするケースが、今年の後半から、きっと急増したのだと思います。そうすると、「スキャナてよんでメールで」といっても、メールの添付の仕方がわからないとか、スキャナをもっていないとか‥。そうすると、D−FAXでは対応できないのです。

まったく、ヒカリ電話なんて、面倒なものが普及してくれたものだ。

と、まずは愚痴。

そんなことが、本当にこの1週間多発しました。そんな中、昨日、パナソニックから、SDカードにファックスや留守番電話データを保存できるファックスが発表されました。ファックスはJPGに、留守番電話はWAVに保存されるそうです。

そして、SDカード型無線LAN内蔵SDカードなるものが海外では発売されています。そうすると、このSDカードをパナソニックのファックスにいれて、受信したJPGやWAVを、オンラインストレージに転送することはできないか‥。

D−FAXを使う最大の理由は、ファックスを外出先で読めることです。以前は、ファックスを読むために事務所にもどることがずいぶんありましたが、D−FAX導入以後はこれがなくなったほどです。もし、パナソニックのファックスと無線LAN内蔵SDカードで、上記のことができれば、D−FAXでなくても外出先で読めるようになる(さらにJPGならば、PHS本体で開くこともできる)。

パナソニックさん、もう一歩前進して、オンラインストレージ(いや、これが、松下の運営する Hi-ho 限定でもいいです。そうしたら契約しますから)に、受信ファックスや留守番電話を保存するようなファックスを発売してくれませんか?

いや、それならば、Willcom さん。どうせパケット定額やるならば、独自のオンラインストレージサービスを展開して、留守番電話や受信メールを保存するようなサービス、考えてみませんか? そうすると、PHS のエリアのマイナスをカバーするのに十分なほどのサービスとなりえますよ。

2.5GHz を確保したんですから、そのくらいやってよー‥まったく。

などと思うのでした。


2007/12/20/(Thu) 13日の続き

「政治的決断」でもめていますね‥。
私は13日の日記のような見方もしているので、今回一番ずるいのは大阪高裁だと思うのですが。

30億円用意するからわけてあげなさい、というのは、相当国も譲歩したと思うのですが、その表現がよろしくない。だから原告を説得したり納得させられなかったのではないか、というのが私の感想。
他方、原告も「全員救済」ということに固執しすぎているようにも感じます。原告弁護士が、「‥としていけば、いつかはラインがひかれる。」という発現をしていましたが、それ、ぜんぜん論理的ではありませんよ。弁護士が感情に走ってどうする。「いつかは」などといわず、それを明確、具体的にして争うべきではないのかなー。できないから、ごまかしているのか。

事件の内容に目をむけると、たしかに認可を与えた国にも責任を問いたいとは思います。でも、13日でもちょっとふれましたが、対照的に、なぜ、姉歯問題は、国や行政が確認をおろしたことに目がむけられないのか。

コイズミさんが、らい病のみなさんに革新的な「政治的決断」をして人気を獲得しました。あれ、でも、単なる人気稼ぎですよ‥。その瞬間はよいが、将来に与える影響とか、少しは考えたのか。ただ、薬害と違うのは、あれは過去の過ちを認めるだけで、現在の日本社会では、同様なことがおきる可能性はほとんどない。だから、ああいう人気稼ぎをすることもできたし、しても、あまり影響はない。
今回も、原告はきっと、同じような画期的な政治的決断を、フクダさんに求めていたのでしょうけれど、あれとは大分違う。コイズミさんみたいに自分が大臣やっているときだけよければいいや、という無責任さがなければ、ああいう判断はしたくてもできないでしょう。

私的には、すなおに、申し訳ない、という発現をフクダさんはしていたし、謝罪の言葉を形式的にではなくて発してのあの決断ですから、ほどよい落しどころだと思うのですが。
厚労省がからんでいるだけに、ここはたたきどころと、原告を応援(している振りして人気稼ぎする)して、野党や反フクダの与党のみなさんが、騒ぎ立てるんでしょうね‥しばらくは。

しょせん、悲しい現実をうまく演出して、原告も政治家に利用されているだけ、とまで思うのは、やはり私はひねくれもんでしょうかね。

(後日追記)
議員立法で、というのは、またまた程よい手法を選択した、と感心しています。もちろん、その内容が問題ではありますが。でも、司法(大阪高裁)は、司法的には責任は問えないから政治家がなんとかしろみたいな責任転嫁していましたし、その政治家が独断と偏見でやったら、民意の検閲をうけていないことになる。この点、形骸化したという批判はともかくとして、国民が選んだ立法府の判断を経由して補償するのだから、形式的には批判の糸口はなくなるわけで‥。

もちろんこれは形式論で、支持率低下対策であることは明らかですが、そういう思惑に左右されて何もしないよりははるかにマシです。

でも、どうせならば、肝炎限定ではなくて、国家が認可やお墨付きを与えたことが、司法判断としては厳格な因果関係や違法性の証明ができないとしても、灰色のときにとるべき補償方法として、まとめてもいいのではないかな、と思います。そうでないと、今後、似たようなケースは続発するような気がしますし。


2007/12/13/(Thu) 総論賛成各論反対の無責任さ

C型肝炎の訴訟の大阪高裁はあのような結果をだしました。

もちろん患者すべてを救ってあげたい(総論)。
でも、その費用をだれがもつのか。

法律的なレベルの過失、責任はない、というのが、和解に頼る原因でしょう。
和解に頼らないでいけるならば、原告はあくまでも判決を求めたはずですし。

そうすると、今回の事件は、国には法律的な責任はない(いや、あると断定できない)。あると断定できないときは責任をまぬがれる、という制度を認めているから、現在の法律があるわけで、その法律は、民主主義では国民みずからが定めたもの。だから、法律的な責任が確実にないのに賠償してあげなさい、という世論は、自分が決めた基準を放棄している、ともいえるかもしれない。

で、今回の高裁判決は、実にずるい。私見をのべて、私見では国に賠償しなさいよ、と暗に促している‥。それは司法判断では国がお金を払う義務はないが、政治的判断で自主的に払ってあげなさいよ、と、言っているわけです。

ここで、タイトルにもどります。

今回の事件、だれもが「総論賛成」でしょう。これは、マスコミの世論操作もないと思います。でも、各論まで賛成するだけ責任をもって総論賛成といっている人はどのくらいいるでしょうか。

各論、すなわち、具体的な支払いです。国が払え、と裁判所がずるがしっこく暗に政治的判断を求めたとおりすれば、これは、税金から拠出されます。そのため、予算が足りないから、国民一人当たり5000円いただきます、といったら、快く賛成するか。これが、各論まで賛成かどうか、ではないかと今回は思うのです。

学生時代、民法の不法行為法とその特別法である自賠法を最初に学びました。その2年後に、国家賠償法を行政法の視点から学んだのですが、不法行為法の判例の変遷、自賠法の発想からすると、はじめに「被害者救済」ありきです。そんな中、行政法的な視点で国賠法をみると、違和感がたっぷり。そんな中、行政法担当教授が一言いったのは、「国賠法の限界であり矛盾は、この賠償するお金は、税金から拠出される」というものでした。だから、行政法視点で「賠償」をみると、被害者救済一辺倒ではいられない。

今回のC型肝炎にかぎらず、「消えた年金」も、もし、すべてが判明しないのに、かわいそうだから年金を支出してあげなさい、ということになれば、これは税金や社会保険料から拠出されることになります。いや、あなたの年金のいくらかをわけてあげなさい、といった方がわかりやすいか。

個人的には、舛添さんの今までの発言(消えた年金以前の彼が人気絶頂だったとき。たとえば、薬の認可にかんする一連の発言など)も、みなリップサービスで、根拠がないと思っていました。薬の認可を早くすることは大事ですが、これで薬害が増えたら‥。その頃には彼は少なくとも政界を引退しているだろうし、死んでいるかもしれない。だから、認可をとにかく早くさせます、というのは、あとのことを考えなければ実に耳障りがいい。

これは一例ですが、政治家なんて、自分が生きているあいだ、いや、政界にいる間しか考えていない。それまでにボロが出てこないような長期的な潜在的な問題をかかえていることは、ふせておいて耳障りのいいことばかりいっていればOK。

なんて考えていないでしょうかね。(それでほとぼりが冷めるのをまっているのが某前前首相と、までいうと憶測だけですが)。

そして、私も含めた国民の多くはそんなにバカでないが、ややずるいところがある。(と、思うのですが)。だから、「この政治家、言っていることがあやしい」と思っても、問題が顕在化するのは自分の孫子の代だからいいや、くらいで支持、応援していないだろうか。もちろん、理念としてはすばらしい! でも、具体案レベルまで掘り下げて考えるとあやしいことばかり。

そういう意味でも、総論賛成各論反対は、無責任だと、あらためて思うのです。


2007/12/12/(Wed) なぜゲームやキャラクターなのか

10/17 の日記の続き的ですが。

Wii fit なるゲームは、ゲームを敬遠していた人に買ってもらうために開発されたとか。fit は fitness 。身体を動かしてゲームする仕組み、なんでしょうね、きっと。強い関心がないのでまじめにCMをみていなかったのですが。

ゲームでなんでそんなことやらせるの?

最近の脳トレもそうですが、ゲームでなんで?

科学的根拠はないですが、10/17 のとおり、私の体験と経験から、ゲームで学んだものはなにかが違う。おかしい。残念ながらそれが現状だと思います。

Wii fit でトレーニングするならば、よほど家の近くを散歩した方がマシ、だと、私は、偏見たっぷりではありますが、思います。

そうそう、同じことをこの数年感じるのは、キャラクターまかせということ。
大の大人がキャラクターにひかれて商品を買う。
もう、それ自体世も末。
子供の教育の世界では、親が「顏をあらいましょう」というより、シマジロウなるくだらないキャラクターが言うか、「シマジロウが言っているから洗いましょうね」と、親がいった方が子供には効果があるとか。

なんだい、親よりシマジロウなのか、その子は。ならば、シマジロウに食わせてもらえ。学校にいかせてもらえ。

などと私は思ってしまう。

シマジロウの影響力を高めて、シマジロウグッズをかわないとならない環境に仕組んだメーカーだか教育研究所だか、出版社だかわからないが、そういうものに隠れている儲け主義の人間の策略にはまっただけじゃないの??

百歩どころか、1000不可思議歩くらい譲って、ミッキーマウスが英語を教えるのは、ミッキーが英語をしゃべるから認めるとしても、イナゴのごときアメリカ人の食い散らかしの一貫じゃないのかな‥これも。

そりゃ、楽でしょう、適当にそういうキャラの出ている絵本(は、まだ許せる。でも)やテレビ、ビデオを見せていれば、子供を相手にしないで親は遊んでいられるのだから。そういうスキを狙って、やつらはキャラクター依存症に子供を陥らせて、もうけているんでしょう、きっと。

と、私のきょくたんにゲームやキャラクター商法を嫌う偏見によるものですが、でも、戻りますが、ゲームでえたものは、なにかおかしい。かりに大きな利益があっても、それ以上に失うものがある、と、経験と体験から思います。

そういえば、私が子供の頃は、マンガがその役割をしていました。

学研のマンガ百科シリーズって、私もずいぶん「眺めました」(決して、読んだのではないと思う)。それでたしかにいろいろな知識もえました。でも、なにかそれはちがっていたように今は思います。そう、小学生の頃、このマンガ百科シリーズの「父兄の方へ」を読んだことがあります。マンガだから子供が関心をもち、積極的に好奇心を発揮して、だからこそ、本書は役立つのだ、というような出版元の論調。それを裏付けるとすると、子供とその親に行ったアンケート結果がのっていました。そんなアンケート、とり方にも、集計にも分析にも問題があったと思うし、そうなると、この論拠にはなんの根拠もない。と、ということを、当時(小学校2年生くらいかなー)から感じていたのは、とうの読者である子供なのに、なにか、直接体験したり、本を読んだりしておぼえていく知識と、マンガ百科シリーズの間には違いがあると感じていたからです。

その違いは、実はわずかなもので、子供の成長には無意味な差かもしれません。さらに、そんな違いを感じるのは私だけかもしれません。だからこの見解が正しいとか、恒久的・普遍的とは決して言いませんが、少なくとも私個人は、最近のゲームでなんでもする、キャラクターでなんでも教える、というのは、違和感、心地悪さ、不安感、その他マイナスの印象を感じざるをえないのです。

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