最近の私的の雑感

不定期・不確実の、妄想・幻想・感想 etc.

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2007/08/16/(Thu) 難しい歌を平凡に演奏するよりも、やさしい曲を…

難しい歌を平凡に演奏するよりも、やさしい曲を上等に演奏する方が、より音楽的である(シューマン)

と、いう言葉があります。

8月9日。仕事の調整をできるかぎりして、6年前からいっている、東京混声合唱団の「8月まつり」演奏会は、最終ステージは中山晋平特集でした。氏は、生誕120周年とのこと。

所属の合唱団で、今、源田俊一郎氏の編曲による唱歌メドレーをやっています。そのメドレーの1曲目も、中山晋平の「シャボン玉」。

8月まつりでも、しゃぼん玉は歌われました。最初の「しゃ」の声が聞こえた瞬間、言葉にならない感動がありました。感動だけならばイモーショナルなだけ。想像を絶する技量というか技術というか…テクニック面も感じるものがありました。

やさしい歌かどうか、ときかれれば、シャボン玉は、たぶんやさしい方でしょう。すばらしい林光先生の作品、編曲作品が8月まつりでは演奏されますが、なにより、この素朴な1曲に、そして、幼稚園の子供だって口ずさむこの1曲に、感動も東京混声合唱団のすごさも感じる演奏会でした。

その感動の影響か…。

仕事がら、「たまたま仕事があいたら」のノリで、突発的な家族旅行にでかけます。毎年お盆は比較的暇なので、お盆にはどこかにでかけようともくろんではいましたが、14、15日で、戸倉温泉にいくことにしました(13日夜に決定)。でも、ちょっと戸倉からは遠いのですが、どうしても、長野県中野市の中山晋平記念館にはいきたいと思って、強行軍でいってきました。

上記のメドレーには、中山晋平作品は「あの町この町」もあります。記念館で、この曲の初版(あるいは初版に近い楽譜)には、「はずむように」と記載されていることを初めてしりました。現在の源田先生の編曲はどちらかというとしんみりしたイメージですが、「中山晋平少年少女合唱団」の演奏は、八分音符の連続ではじまるこの曲は、附点八分+16分音符かのような歌い方で、まさに弾むように演奏されていました。

シャボン玉は、野口雨情の研究から、合田さんの解釈が、ある程度広まっているようです。でも、合田さんの『童謡の謎』は、私も2巻を読みましたが、みなさん、解釈を間違っている! と、声を大にしていいたい。合田さんご自身も、断定的な日本語を使わず、「○○と考えられないか」という言葉で掘り下げています。なのに、「合田説」が唯一の正しい解釈のようにあつかわれることが、このシャボン玉に限らず、よくみられます。
私は、中山晋平記念館にいく前も、いったあとも、シャボン玉という曲の「合田説」は、どうも納得できない。逆に否定できないから、一つの見解としてはなりたつとは思いますが、それだけが唯一の解釈か。歌い手、実演家がそれぞれのもっと自由な解釈で歌ってよい「余地」がある、ということを、あらためて実感しました。

かつて創立にも携わり、所属していたものの、事情から退団した、高崎コスモス合唱団が中心となって、11月4日の東京混声合唱団高崎公演のための、「合唱団COSMOS」に現在参加しています。ここでは、源田氏の代表的な編曲作品といって間違いない、「混声合唱のための唱歌メドレー故郷の四季」を歌います。そう、この曲は、高崎コスモス合唱団がはじめて新たに取り組んだ合唱作品でもあります。ですから、私も、合唱初心者として10年前に歌った作品です。

あのころは、それでも音を正確に歌うことに精一杯でした。
今回は、「やさしい曲を上等に…」のごとく(しかし、音楽的素養が充実したわけではないから、自分なりの方法で音楽も詩(これも、ここでは決して「詞」ではないと思います)も(理解するのではなく)感じて)、11月4日を迎えられれば、と思います。歌を離れて、作品の研究だけでも、十分に価値のある名曲ばかりがそろっているメドレーですから…。

その解釈や理解が正しいか否かではない。解釈や理解をしようとしたことそれ自体が大事だし、それを合唱団が共有していることが大事なんだ、ということを、前回共演したときの指導・指揮者であった田中信昭先生はおっしゃっていたように思うので、私なりの、故郷、春の小川、朧月夜…と続くこのメドレーの理解に励んで、決してプロ合唱団がなし得ないこと(=一つの公演に時間を割くこと)をした上で、公演に臨みたいと思っています。

久々の、完全プライベートネタでした。


2007/07/30/(Mon) 投票率

が、低い。

と、いうことが、なぜか今回はそれほど強調されない。
むしろ、若い人にインタビューして、語らせて、こういう若者もきちんと選挙にいっているんだ、といわんとばかりに。

でも、統計的数値は、自民党の獲得数ほどではないが、かなり低水準。
なのになぜ低水準だったことはニュースにならないのか。

投票権は、明治以後、先輩日本国民の努力で勝ち取ったものだとは思うし、憲法にはなんたって、義務だ、と解釈するしかない形で表現され、だから、投票は権利ではなくて義務だ、ということも文言としてはわかります。

でも、投票率の低さを問題にしないまま過ごしていいのだろうか。と、いう疑問も出てきます。

選挙に、政治に関心がない。いや、関心をもっているのはたぶん、投票率の割合から計算されるより大勢の人だと思います。もっているのに投票にいかない。それは、投票の価値が見いだせない場合や、どこに投票しても同じ。あるいはあきらめ、があるからではないかと、私は推測します。
この推測が正しいかどうかはわかりませんが、そうだとすれば、政策、マニフェスト論争はもちろん大事ですが、これを改善する政策が、もっとも大事ないのではないか、と思います。

極論としては、今回、ほぼダブルスコアに近いほど、民主党が自民党を破りました。でも、投票にいかなかった人の7割ほどが自民党に投票すれば、結果は逆転します。そんな結果で、本当によいのだろうか。

他方、私は故事でもいわれる、政治に関心をもたないでいられる政治が一番よい、という発想も、否定できません。いや、どちらかというとそれに賛同します。そうすると、関心がないから投票しない、という人が多いならば、今の日本の政治は理想的、ということになるのでしょうか。

そんなことも思いますが、私の選挙後の思うことは、いつも同じです。

どこが勝っても、自分の生活を守るのが大事。たとえば、自民党に批判的な意見があって、自民党以外にいれる。その数字そのものが批判であり、結果として自民党が勝っても反省になり、負ければ改革につながる。だから貴重な一票、というのが模範解答でしょうか。

でも、現実は、勝てば官軍だから、与党が勝ってもなんも反省はしない。選挙がおわれば翌日どころかご挨拶がおわった頃からすっかり忘れるでしょうから。
与党が負けても、野党に政権担当能力がないから何もかわらない=改革にはならない。以前の社会党政権と同じです。もしかしたら今回の選挙だって…

「どうも民主党に分(人気、知名度、戦術)があるから、この選挙をきっかけにして膿をだしてしまえ。それで参議院で第一党になったって、衆議院でひっくり返せるし、民主党にはなにもできないことを国民にしらせるよい機会だから」くらいの、自民党の見解が背景にあったりしないでしょうかね…。土井・村山時代の社会党政権って、自民党がおもしろがってやらせてみて、ダメぶりを国民に知らしめた政策だった、としか、私は思えないので。

だから、どこが勝つかを応援したり研究するよりも、どこが勝ってもよいように、自分の環境を整理して自衛することの方が優先です。

さて、今日から何をしていきるのが一番得策か。

それを考えると夜も眠れません。選挙なんて、もう遥か昔の話ですから。


2007/07/03/(Tue) 政治家の発言は素直に聞けない

久間さんの辞任。

与党閣僚からも批判がきたのは大きい影響力があったと思います。

だけど、これ、素直に聞けない…。これだけ久間さんが批判されているから、今こそ自分も批判派だ、とアピールすることで、選挙に有利にしようと、仲間を切り捨てて、さらに悪者に仕立て上げて、自分の存在・支持を高めようとしているだけにしか聞こえない。

と、まー。いずれにしても茶番です。

久間さんも、辞任会見で、本音でもぶちまければ、野次馬的には面白いのに。

などと、一連のことは思うのですが、しかし、あらためて思う。この日記の昨年の8月にも書きましたが、原爆だけが悪いことでしょうか(いや、悪いことは議論する必要もないのですが、そうではなくて)、原爆反対、非核だけをうったえていれば、戦争への歩みをすすめても国民の批判はあびないですむ。という計算の下で、罷免もせず、辞任をうながして、ちゃっかり戦争をしやすい方向に向けているのでは? とまで、勘繰ってしまう今回のできごとです。

反核はもちろん大事ですが、それが、反戦の声を吸収して消し去る手段にはならないことを祈ります。


2007/06/06/(Wed) コムスン処分

連座制適用で、大きな処分になっていますが、昨年の母と比べるとまだよいのでは? というか、利用者のことをまだ考えているなー、というのが個人的感想。
だって、母の場合は、デイサービスが迎えの時間になっても来ないので、電話をしたら、業務停止になったと知らされて、他を探してください、という状況でしたから。
なぜ、母の利用していた施設でも、同じように、次の更新をさせないとか、「○カ月以内に利用者に他業者を斡旋して、業務を終了するように」という処分にならなかったのか、疑問というか、今でも県の処分に不満を感じます。

それはさておき、コムスンって、介護保険制度がたちあがった頃から、こういう不正をしているという噂を、介護職の方から、何度か聞いたことがありました。誰に聞いたっけな…という程度の、何かの研修会の休憩や終了後の雑談とか、たまたま飲み屋で知り合った介護関係の人の愚痴とか…そういうレベルですけれど。でも、複数の話を聞いたことがあったので、「そんなこともあるかもしれないな」とは思っていたのですが、その中で今日のニュースですから。

ただ、介護関係の仕事の現場の話を聞くと、そもそも介護事業って、商売としては成り立たないのでは? と思うことがあります。いただける報酬は限度があるし、だから介護保険が事業者をフォローしているわけですが、医療保険と医者とはちょっと話が違います。だから実費販売となる消耗品を廉価で仕入れて利用者に定価で販売するとか…。利用者としてはひどいなー、と思う部分もありますが、そうでもしないとなりたたない経営のところが多いのは間違いないようです。不規則になってしまうのはやむを得ない勤務ですから、賃金も実質的には高くなりえない構造のように思いますし。

だから不正をしてもよい、というわけではありませんが、最大手の処分をきっかけに、介護の政策の根本を見直すことも大事ではないかと、素直に思います。


2007/05/27/(Sun) 専門家の不足

医者が不足だそうな。

昨年読んだコラムで、「日本でクラッシックの演奏会が満席にならない不思議」を分析するものがありました。日本で、いわゆる「音楽大学」の卒業生の数。数字は忘れましたが、これは決して少ない数ではない。音楽大学に進学した方が卒業はしたわけですから、少なくとも音楽嫌いではないだろう…。そうすると、そういう人たちが、プロの演奏家にならずとも、音楽愛好家として社会に出ているならば、クラッシックの演奏会は、恒に満員御礼になるはずだ…しかし、現実は、あまりにもかけ離れている。

これは、音楽嫌いが無理やり音楽大学にいかされているか、音楽好きが音楽大学にいる間に、音楽が大嫌いになってしまうからだろう…という趣旨のものでした。

たまたま、音楽関係の雑誌でしたからこういうネタでしたが、およそ、日本の専門大学にあてはまる疑問ではないかと思います。

たとえば、冒頭に書いた医者。いわゆる医大卒業生の数を考慮すると、医者の不足はおよそ考えられない。ちなみに、法学部出身者の数と、「弁護士」の数はここにはあてはまりません。私が学生時代にもいわれていたことですが、日本は、「弁護士になるために法学部があるのではない」のが特色で、むしろ、企業の法務部などに就職し、弁護士よりもさらに徹底した在野として、法務を司り、彼らが活躍することで、訴訟をアメリカよりも減らすことができている、という分析がありました。日本は、判例法は制度としては法規範ではないものの、判例法は事実上の規範です。そして、成文法主義をとるからこそ、法学部出身の法務部所属の人たちが、判決を予測することができ、彼らの活躍の下で、訴訟しなくても解決につながる案件がある、というわけです。でも、医者の世界は違います。医学部出身者が一企業の一総務部にいたからといって、医者がいらなくなるわけではない。そもそも、医学部出身者がどれだけ一般企業に就職しているのか。そして、「潰しのきく法学部」と違って、厳格な資格(免許)制度のもとで動いてい「医学」の世界では、医師免許をとって、医者にならなければ、ただの素人とかわることはない。そうすると、医学部にいっても、医者にならず、ただの素人がいかに多いのか…と、推測されます。

ここで、音楽大学の推測に戻ると、法学とちがって、どちらも「徒弟」的な色が強い世界であることは、外からみていると感じる世界です。だいたい、音楽家のプロフィールをみると、やれ、誰に師事したとか、誰のレッスンを受けたとか…そんなのばかりです。医者の世界も、医学部の教授をトップにして…と、いう印象は、「白い巨塔」を出すまでもなく、感じるところです(とくに群馬の開業医は、群馬大学出身だとか、群馬大学の教授(いや、医局?)とつながりがあるとかないとかが、まともに話題に出ますから)。医学を愛していても、音楽を愛していても、もちろん、とくに芸術に関する分野である音楽大学は、進学して自らの素質のなさに気がついて、逆に嫌いになることもあるのでしょうが、こういうつまらない(と、思います、当事者ではない私にとっては)ことに束縛されるのがいやで、音楽なり、医学を嫌いになってしまうことがあるのではないでしょうか。

と、憶測するのですが、それでも、万が一、いや、ン万分の一でも、この憶測があてはまる部分があるのだとすると、昨今の医者不足は、深刻です。医者の勤務が大変? 前もこの日記で書いたように、医者や看護婦は大変なのはわかりますが、この格差社会の中、一部の大手企業の一部の役員以外は、同じくらい大変ですよ…。だから、そんなのはいいわけにはならない。小さなミスが訴訟の対象になる、というのも、それは医学界の構造に起因するものです。そんなの、医学界の外にいるものからすれば、「何甘えているんだ」と一蹴したくなるところ。でも、医者が不足しているのはどうもたしからしいから…。そうすると、根本的な問題は、毎年ン千人、いや、きっと万単位で医大卒業生がいるのに、医者にならない方々が大勢いるからこその問題では?? 医者になった人の福利厚生とかもたしかに重要ですが、なぜ、高い金払って、医大にまでいった人が医者にならないのか。そちらを解決しないと、医者不足は解決しないような気がします。

ちなみに…弁護士不足は、弁護士にすべてをまかせようとするから、という私見はかわりません。裁判だけが唯一の司法的解決ではない。さらに、弁護士だけが司法関与ものではない。と、上記のように法学部出身、あるいは法律関連職、または法学部出身者をうまく活用する制度にすれば、民事の弁護士不足はある程度解決できると思うのは、私は今もかわりません。弁護士は、大学病院の大先生、大教授のごとく、重大事件だけを扱う仕組みにした方が、うまくまわるのではないかと思います(たとえば、今も大病院は、風邪程度でいくと3150円余計にとられます。町医者などの紹介を前提とする制度ができあがっているからです。同じように、司法書士、行政書士らの紹介とか、法学部出身者の紹介etc.で弁護士につなぐようにすると、司法制度も効率的になると思うのですが…)。

ちょっと偏って書きましたが、専門家の不足って、こういう、準専門家の活用をせず、専門家にあまりにも独占的対応をさせてしまっているからでは? と思う部分があります。あわせて、その当の専門家が少ないのは、専門大学や専門学校をせっかく卒業しても、その道に進みたくない、あるいは進めない状況にしてしまう、専門家集団の徒弟制度的な悪しき慣習が残っているから、という気がしてなりません。そうだとすると、これを改革するのが、一番近道ではないでしょうか。


2007/05/24/(Thu) 業界の常識も常識なのか

ジェットコースターの事故で、会社側の弁明として、従来問題にするような欠陥ではないが、今回は慎重をきして交換した、という趣旨のものがあります。そう、たぶん、「業界の常識として、あるいは経験則として、この程度の傷では事故にならないから、まだ交換が必須ではない段階」というのがあって、それをしらない素人は、傷があるのに今まで放置していた、と糾弾し、当の管理会社などは、「なぜ、この傷を放置していただけで、そんなにたたかれるの?」という、意識のズレがきっとあるのだと思います。

私の仕事にしても、たとえば、申請日の日付欄。このくらい、空欄にしておいて、提出時に書き足して提出するべきところ、そのまま提出してしまった、というのはよくあります。そして、たいていは行政側で「受領印」を押しますし、それに日付があるので、実質的に問題になることはほとんどありません。たぶん、この日付がぬけていることを隠していた、とか、不備のある書類を作成したのに、まともな書類作成報酬を請求した、とか。もしかすると、そのレベルの話なのかもしれません。

車だって似たことは考えられます。駐車場の金網にバンパーがぶつかってしまって、ちょっと擦り傷がついてしまった。所有者自身も、擦り傷だから問題ない、と思って運転している、ということは普通によくあることでしょう。ただ、上記の例とは逆に、専門家からみると、問題があるほどの傷なのに気づいていないだけかもしれません。

儲け優先は私は基本的にいやです。「いかに儲けるか」ではなく「いかに役立つか」という言葉が、先日も新聞に出ていました。日本にしかない超老舗がなぜ、ン百年も存続しえたのか、という新聞の記事です。たとえば、この記事の趣旨には、全面的に賛成します。

でも、物事には効率も考慮しなければならないことがあるわけで…。今回の一連の事故が該当するのかはわかりませんが、たとえば、ジェットコースターの軸に、浅さにしたら0.0001くらいの深さの傷があり、工学の専門家がほぼ満場一致で支障がない、という傷でも、たまたまそれをマスコミの皆さんが見つけると、「傷があるのに放置した」と、糾弾しているようなことはないでしょうか。もちろん、このたとえでも私は「ほぼ」という言葉をつけているように、傷はないに越したことはないのはきまっています。でも、この合理的には問題のない傷をいちいち修理して、管理費が高騰、人件費がかさみ、遊園地も遊戯料が高いために客が減って倒産し…となったときの損失と比較したら…。

あえて極端な例だから、たぶん、上記の例に強く反対する方は少数だと思いますが、これが、微妙なところだったら、意見はわかれるし、法律論としても長期の裁判をさけられないような状況になるでしょう。

そこらの検証が、どうも不十分な気がしてならないのです。

消費者中心の社会、というのは、果たしてよいのか。海部政権あたりを転機として、日本も消費者中心の政治にかわりつつあるといわれます。たしかにそののち、PL法はじめとして、消費者保護の法律ができてきました(もっとも、一昨年は、これが行き過ぎで、消費者をやみくもに守るだけではダメという反省もありましたが)。その結果、悪しき歴史をつくったアメリカという先輩がいるのに、一つも反省していない。なんでもかんでも消費者優先。企業は防衛に走り、そのコストがかさみ…産婦人科の不足もこの一つの結果と考えられます。医療賠償保険が高くなり、医療事故の確率が高いからこそ、コストは増すのに、少子化で値上げができない…という典型です。

CS経営などという言葉が10年くらい前から出てきて、今やCSといえば、水戸黄門の印籠のような世界。私自身、生意気ながら、「CSというものを基準にしていたら日本はおかしくなる」と、言い続けていますが、そのゆがみもここにあるような気がします。顧客満足、という指針は、不景気のどん底のごく短期間には有効な考え方だとは思いますが、国や地域の中長期的な経済に目を向けると、本当によい発想なのか…。

などと、酒の席のネタです、私の見解は。だって、この分野、専門でもないし、長く長く経営実務に携わって、経験から話をできるわけでもないですから。

だけど、たとえば、昨日の新聞にのった、こんにゃくゼリーの窒息事故。これなどは逆に、なぜ、もっと業者を以前から追求しなかったのか。あの大きさの物体を口にいれれば、窒息のリスクは決して0にはなりません。そして、パッケージには「注意してください」と書かれるようになりましたが、これこそ、書けばいいというものではない。食べる対象は、目の不自由な高齢者やコドモがいるわけですからなおさらです。そして、食品業界はうとかったようですが、玩具業界では、誤飲で窒息する可能性があるので、コドモ向けに作ってはいけない大きさがあるそうですが、見事にこんにゃくゼリーはその大きさなんだそうで。そして、このことは、過去の窒息事件でも指摘はされていたようです。なのに、まだ放置して改善していなかったの?? と。

と、いうように、消費者保護に社会が向かい、しかし、変な、中途半端な、対策も経済効率のよいところで落ち着いて、金のかかる根本的な対策はそれほど求められないし注目もされないような、間抜けな対策ばかりが増えてきている。もっと、本質的なところを見ていかないと(だから、CSという戦略はおかしい、と私は思うのですが)、ますますおかしくなるような気がしてなりません。


2007/05/14/(Mon) 運転免許をもつ以上は

本来、道路交通法くらいは、きちんと理解して欲しいところ。車両の改造とかにこだわる方は、車両法もですかね…。自転車もしかりで、現在、これらの法律で「自転車」と認められない自転車がどれだけたくさん走っていることか。法律が厳しすぎるという批判はあるかもしれませんが、法律は法律。一昔前の電動自転車、そうそう、マウンテンバイクのほとんども、市街地を走ることは違法であることを知っている人はどのくらいいるのでしょうか。自転車に関しては、政府もやっと重い腰をあげたようで、自転車による人身事故や、自転車の道交法違反による事故も、少しでも減少することを期待するばかりです。あわせて、自転車事故保険も、自賠責のように、土台を国がやるのも必要なのではないかとすら思います。

それはさておき、自動車を運転する皆さん! 教習所では、少なくとも教えていますから、当時はおぼえていたはずです。
最近、我が家の斜め前の駐車場の方が、たとえば、私の母がデイサービスの送迎で乗降しているとき、あるいは、お迎えの方が乗降しているとき。お隣(が、実は、その斜め前の駐車場の所有者なのですが)に訪問にきた営業や、宅配便の方が停車しているとき…。これらは、道路交通法的には、乗降や、「停車」であって「駐車」ではないので、違法ではありません。なのに、およそ、1km先まで聞こえるような、すざましいクラクションを鳴らすのです。

お気持ちはわかります。高い金払って、自分は駐車場をかりている。そこに入るために、幅員3m程度の道ですから、乗降や宅配に付き合っていては、邪魔だ、というお気持ちは…。しかし、これらは、決して違法行為ではない。ましてや、道路交通法第54条第2項で認められた場所ではないので、デイサービスの車から乗降している人に対して、玄関先で荷物を降ろしている人に対して、警笛を鳴らすことは、あなた! あなたの方が、道路交通法第54条にふれているのです。

現在の場所に引っ越してきて、1年半ですが、この方のクラクションには、私の家に自動車でくる、宅配便、関連業者さんの書類届、上記のとおり、私の母のデイサービス…と、あらゆる方々に、「あそこの車には気をつけろ」と、有名になるほど。そして、どうも、私の家だけではなく、近隣も同様のようです。

一度、私の家に宅配をとどけにきて、ベルを鳴らしているときに、ものすごいクラクションをきいたことがあります。そう、宅配の車が前にあって、そこに、「その方」がたまたまきてしまったのです。「駐車」と「停車」の区別は微妙なところですから、上記の法律論を抜きにしても、この場面設定で、あそこまですごいクラクションをならさなくてもいいじゃないか、と、ごく普通に感じるところです。

そして、今日、また、母がデイサービスの送迎でおりているときに、ぶぶーーーーっと、鳴らされてしまいました。これ、道路交通法第54条違反で告発ってできないものか…。と、一瞬でも思ってしまうほど、悪意に満ちていると感じてしまうような、クラクションのすごさ。

免許をもつ以上は、警笛を鳴らしていいのかわるいのか。もう一度反省して欲しいところです。いや、法律論以前に、目の前で、杖をついて、「デイサービス」と明記してある車からおりる人に対してクラクションをならす行為は、どういうものか。

まー、この日記を読むとは思えないような高齢の方がその主ですから、ここで書いても仕方ないのですが、だから、これをちょっと普遍化して…。

人に文句をいうまえに、その文句が妥当なものかどうか…ということは、冷静に一度確認してみる。法律でがちがちの世の中になりつつあるのは残念ですが、反対の価値観をもつ人の立場に立ち返ってから行動に移すだけでも、冷たい法律社会になることを少しでも防ぐのではないかと思います。

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