5/3 、久しぶりに日記を書いたつもりだったのですが、残っていないことに一週間もたって気づきました。登録ボタンを押し間違えたのでしょうか。
書いたことは、5/3 ですから、憲法のこと。
何年か前のここの日記に、憲法をどうかえるかではなく、その前提であるどういう日本にしたいかが先だ、という社説を紹介しました。これは今も同じで、今、改正の手順を決める法律を作って、国民投票して、かえたとしても、どうしたいかがわかっていないのだから、字面がかわるだけでしょう、という趣旨のことを書いたはずなのですが…。
養老律令が明治憲法まで生きていた(廃止されない国の基本法として)、というのは、学生時代に教わった驚きの一つでした。日本は憲法をかえない伝統があるのか…。 そして、明治維新で、先進国に入るために無理やり法律を作って、見事に失敗しました。少なくとも、昭和40年代ぐらいまでは、法律と社会の乖離は明らかで、「法律の世界」と「現実」は区別されてきた。 ところが、グローバル化と称するアメリカの押しつけに右へならえするために、無理やり日本社会を「法化」させたのがそのあとから現在まで。そうすると、人は都合のいいところだけ「法意識」を身につけて、法律の厳しいところを知らんふりして「悪用」するようになった。
と、いうのが、私の最外郭の法律実務家としての意見であり、印象であり、感想であり。だから、今、この仕事をしているともいえる。
憲法は、解釈改憲や変遷が良いとはいいませんが、日本人らしく解釈されて(9条除く)、逆にもっとも根付いている規範のような気もします。まー、曖昧な日本の私を含む曖昧な日本人と、曖昧な憲法だからなのか?? そんな中で、「どういう日本にしたいのか」が見つからないままに、憲法の文字の羅列、紙のインクの滲みだけをかえても、法律と無縁の明治の日本に法律を接受したのと同じことになるでしょう、というような内容だったと思います。
それから1週間。また、そんなことを予想したくなるような事件や事故がおきているような気がしてなりません。
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