どこの国だったか、電車などには「こども料金」はなくて、体重だか身長で料金を区分しているというのを聞いたことがあります。
最近電車にのったり、エレベーターに乗って思うのは、「抱っこやおんぶはの乳幼児は無料でも良いとして、ベビーカーに乗っている乳幼児は、こども料金くらいとれよ!」ということ。 乗り物の中での専有面積は、大人のそれよりも大きいです。だいたい、あれは手荷物だろうに。そうすると、畳んでいない限り、鉄道で料金を求められる手荷物の大きさには該当していないのだろうか。
まぁ、それも、「すいませんねー」という雰囲気だったり、形式的にでもそういってくれる親がそばにいるならば、そんなことも思わないのですが、「そこのけそこのけお子さまが通る。邪魔な大人は出ていけ」みたいな雰囲気の親子にあうと、ますます思います。
子供に寛大すぎるのでは、というのはこの日記でもだいぶ前に書きましたが、子育てに寛大すぎる、甘すぎる、ちやほやしすぎじゃないか、と最近は追加です。
もともとだから、子育て支援政策はどうも支持できない、といつも思ってます。ちょっとくらい税金を安くしたり、料金割引をしたって、子育てに気持ちが向くとはとても思えませんから。もっと根本的なことから改革しないと。
それに、そもそも支援政策は、不合理な区別=差別ではないだろうか、とも思います。たとえば最近は、自治体が援助して、子供のいる家庭に割引をするお店の登録だか指定をする、というのが、高崎市でもあります。子育て家庭が家計が大変で、子供をたくさん産んでほしいし、育てて、最終的には市町村の人工を増やしたい、という政策なのでしょうが、子供を生みたくても(という表現をすると女性だけになってしまう。子供をもちたくても)もてない人も、病気の問題、家庭や仕事の問題、経済的問題、その他で、少なからずいます。そうすると、子供をたまたま生んだりもった人だけ優遇するのはどうも納得いかない。子供を生まない、もたない大人は邪魔だ、というようにすら感じてしまう(子供を生めない女性に不適切な発言をして失脚した政治家がいましたが、女性だけではないですよ)。
今日もファミレスで昼食をとっていたのですが、最近席を選ぶときは、煙草は嫌いですが、煙草よりも子供(と高校生)の近くでない席を選ぶようになりました。煙草は仰いだり扇風機をまわせば(私は煙草対策でときどき持ち歩いているのですが)さけられますが、ガキのうるさいのはどうにもならない。そして、「うるさいなー」という顏をしようものなら、「“将来ある”子供のことなんだから」とでもいいたそうな親の顏。(そんな親に育てられた子供に将来なんかあるか! という感情論は抜きにしても)子供も社会にでれば社会のルールにしたがうべきだし、騒いでいいところといけないところの区別がつかないうちは、連れ出すな、と言い返したくなる。そして、それをしつけることもできないバカモノめ。と、ついつい感情的になったりもするわけです。そして、今日は、なんと、主婦友達が待ち合わせでもしていたのでしょう。遅れてきた親子の子供(1−2才くらいかなー)は、なんと、入店から15分も「帰る、帰る、帰る」と、帰る以外の言葉を一つもださずに連呼する始末。ようやく一度店の外につれだしていきましたが、そののち5分くらいして私もかえるときにみかけたところ、まだ、外でも「帰る帰る」を繰り返していました。あそこまでして帰らないで子供につきあわせる神経っていったい‥。あれも立派な子供の虐待じゃないだろうか。
そんなこんなで、子供を注意しない、子供のことだからうるさいこというなよ、という雰囲気の親が大嫌いです。でも、坊主にくけりゃ‥、という言葉のとおり、そうなると、子供自体も嫌いになるし、それを支援する人も、社会も政治も、みんないやになってきます。
そういや、同世代との付き合いが減ったのも、子持ち家庭が増えてからだなー。
タイトルのように感じないで過ごせる共生はできないものだろうか。
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