最近の私的の雑感

不定期・不確実の、妄想・幻想・感想 etc.

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2004/10/18/(Mon) 斎藤民先生逝去

群馬県のごく一部の人しか名前は知られていない方でしょうが、群馬県合唱連盟、高崎市民音楽連盟等の創立者であり、現役理事長の斎藤民先生が、昨日お亡くなりになりました。享年93才。

私にとって、久しぶりにインパクトのある「人の死」でした。

趣味として「合唱」と最近は明言していますが、その当初から斎藤先生は直接・間接に関与してきました。とくにこの2年半は、斎藤先生が直接指導している「みどり会混声合唱団」にも所属していましたから、先生の93年の人生のわずか37分の4程度しか関わっていなかったと雖も、私にとっては、人生に影響を与えた、とはっきりといえる人物でした。

行政書士会というのは、超高齢化社会です。だからよく「後進を育てない・譲らない」という批判が、永年役員をしている方に向けられます。だが、果たしてそうか、と最近はいつも思っています。後進は育てられる? 譲られる? そんな生易しいものでは、その組織はつぶれた方がましです。もちろん、形式・表面的なことは先人として教えることはあっても、核心は盗み取り、工夫して開発してこそ進歩があるというものでしょう。その結果として、奪い取るものです。だから逆に「いいお年寄り」ぶって、「若いモンに譲る」といって一歩引くお年寄りをみると、最近は「何いい子ぶって居るんだ」と、イライラすることすらあります。

斎藤先生にも同様な批判はありました。なにせ、93才まで現役ですから。だけど、批判する人は、上記のとおり、自分で盗みとり、自分で工夫して開発し、奪い取ることができなかった人の遠吠えだ、と私は思っています。

ふと、今日、斎藤先生の指導で歌った合唱曲を一つ一つ思い出してみました。順番にいくと…高田三郎先生の『水のいのち』。中田喜直先生の『日本の四季の歌』。小林秀雄先生の『落葉松』。みどり会合唱団では、団伊玖磨先生の組曲『川のほとりで』に、かの有名な『筑後川』。高田先生の『心の四季』から2曲。池辺晋一郎先生の『花の祈り』。そして練習の合間に、曲集からそれこそ思いつきで歌った、古典的国内外の名曲の数々…。最近は大中恩先生の組曲『心の抄』、『サトウハチローの詩による5つの歌』等々…。わずかな期間ではありましたが、他に所属している合唱団では決して取り上げることはなかったであろう、味わいのある曲がズラリとならんでいます。そして、指導は具体的に何があったか、というと、まさに「雰囲気から学べ」というものが多かったものの、歌詞の大事さ、作曲者も意図を読み取る術…。たんたんと、いや、飄々とした、という印象がむしろ強い、合唱指導者としての斎藤先生でしたが、作品への思い入れというのは、常にすごい気迫を感じるものでした。

音楽家でしたから、音楽の面で学んだのはもちろんですが、2年ほど市民音楽連盟の会計をやらせていただいて、その過程で人間的な面も少しは見させていただきました。私の世代からみれば、ある意味で滑稽ですが、90歳の斎藤先生が、60歳の人たちを「もうろくして」とか「年取ったんじゃない」と揶揄するシーンは、あまりにも印象的です。でも、客観的にみていても、頭のさえ、切れ味は、60才台の「若手」を一喝するだけのことはあったな、と感じます。こんな風景に接した経験…少しであっても、この方が私には貴重なことだったかもしれません。

初めて先生にお会いしたのは、平成9年。先生のご自宅に、市民音楽連盟発刊の『市民愛唱歌集』を購入しにいったときでした。「あなたも合唱なさっているのですか」と聞かれて、とまどって中途半端な答えをしたことだけ覚えています。一方、先生と最後にお会いしたのは、9月の高崎新人演奏会の場でした。歌がうまくなったかはともかくとして、はっきりと「はい、合唱しています」といえる気持ちになれたのは、先生のおかげもあるように思います。

学業、仕事、趣味…など、数々の分野で「かかせない人」はいると思いますが、「趣味」の分野での最も欠かせない人の一人が、一番最初に逝ったように感じています。

連盟の引き継ぎなくお亡くなりになった、というのは、確かに問題ですが、もともと、自分で考えて行動するべきことを先生は常におっしゃっていたようにも思います。どうか、後継者を自覚する人たちは、私利私欲なく、何をするべきか、自分で考えて自ら行動を起こして、先生の「軌跡」を活かしていって欲しいと思います。

(追記)
齋藤先生に最後にご指導いただいたのは、先のねんりんぴっくで演奏した「昔語り」の童謡(群馬ゆかりの童謡を、塚田佳男氏が編曲したもの)か、『土の歌』の1〜3楽章(「農夫と土」「祖国の土」「死の灰」)及び7楽章(大地讃頌)を、高崎市民音楽連盟合唱団で、だったと思います。「死の灰」をやったときは、この戦乱と言える現代において、大地讃讃ばかり有名になった『土の歌』の意義を、また、「昔語り」では、戦後の幼児教育の問題点を、少ないコトバながら語っておっしゃったように思います。

命日でもある17日のねんりんぴっく音楽祭では、「昔語り」が先生の構想にしたがって、24日の合唱祭では、みどり会合唱団が「サトウハチローの詩による…」で、精一杯歌ったことを報告いたします。11月3日には、上記のうち、「農夫と土」「祖国の土」「大地讃頌」を歌います。いつまでも平和を獲得できない無能な人類に希望を与える歌となりますように。


2004/10/13/(Wed) 銀行嫌い

私、銀行嫌いなんです。
それだけに、今回のダイエーは頑張って欲しかったなー。
ダイエーの借金をおまけしろ、という方が虫がいい?? と言われるかもしれませんが、かつて融資を決定したのも銀行です。

テレビドラマやドキュメントでも取り上げられましたが、バブルのときに必要のない融資の誘いを受け、それに乗った直後にバブル崩壊。そして一括返済を中小・零細企業に迫る…というのは、決してフィクションではないようで、個人投資家からそれにほぼ近い相談を受けたこともあります。

だいたい、(最近は少しは勉強したかもしれないが)不動産の担保以外は財産価値を見いだせず、知的財産権があっても不動産がないばかりに融資を受けられなかった起業家とか…。その不動産の正当な評価すらできなから、今、焦げついているんでしょうに。

そんなもんにペコペコしないとならない経済構造がおかしい!

郵便局の民営化だって、私は無駄遣いも多いかもしれないが、郵便局の現在の経営方針(公営だから経営とはいいませんかね)の方が、よほど民間の金融機関より安心できます。自由競争に…といったって、信用できる民がないと思う私のような者は、郵便局が他のくだらない金融機関と同等に成り下がることの方がよほど心配。

銀行員の資質もずいぶん疑問に思います。傍目より厳しい仕事であることは友人その他が銀行マン・ウーマンしているので聞いてはいますが、その程度の厳しさ、他の業界だって同じですよ。悪い気を起こさないように給料を高めにする必要がある? なんていいますが、顧客への信用の確保は他のやり方があるでしょう。なのに自らの平均給与等はあまり(適当にそれなりに納得出来る程度に)下げずに、それでいて、政府の介入は嫌だの、(今回の某アルファベット3文字の…ように改竄までするなんて)、信用できますかって。

だけど、来年、どうも民間の金融機関に大金を借りなければならないようで(住宅ローンという名前の借金)。これだって、他の機関・組織に門戸を開放しない、なんとなーーく銀行を保護する政策の一貫でしょうか。金利が倍でも民営でない郵便局が住宅ローン販売していたら、私はそちらを選びます!

と、いうくらい、銀行が嫌い。しょせん高々金貸しだ、ということを自覚して、何が国民のためになるのか、(なんて、考えるほど、優秀な頭はないですね。いかに国民をだましてぼろ儲けするかしか働きませんね…国もバックアップしているんだし)考え直して欲しいもんです。

ひさびさ、欲求不満解消の超暴言でした。


2004/09/16/(Thu) 野球が

もめていますね…この半月。

たかが選手が、という某前オーナーの発言もごもっとも。ファンの気持ちだの期待を酌んで欲しいといっても、球場に足を運んでいなかった(よって、赤字経営の一因となった)だけに、これも感情論かな、と思う部分があります。

選手会が労働組合として認められたとしても、最近の判例は、経営上の理由でのリストラは肯定的ですし、そうなると、労働者の保護を考えるあまりに経営破綻よりも合併の道を歩むのは、評価されることになるのかな…と、思います…が、一切説明や経営改善努力をどのようにしたのかが不明瞭なのはいただけませんね。

だけど、冷めてみると、選手って、雇用関係にあるわけではなく…たとえていえば、建設業の下請け自営業者です。大手ゼネコンが困窮するなか、下請けを切り捨ててきたのと比較すると、人気があって注目されるから問題になるだけで、同様に切り捨てられても文句はいえないのかな、という気もします。

「夢を与える仕事だから」と、よく言われますが、これも個人的には疑問。夢をあたようがあたえなかろうが、そこで働いている人が真剣なのは同じで、かってにそれを見て夢を感じるか否かで区別するとしたら、それは職業差別です。比較に出して申し訳ないですが、土木作業員だって一緒懸命仕事しています。彼らの最高の実力を発揮している人が3億も4億ももらっているのかといえば、それはありません。それは仕事の対価の他に、夢を与えるとかなどの付加価値がないから3K(ちょっと古い言葉ですが)などと言われる職業になっているわけです。

と…個人的信条としては、選手全員が給料を10分の1にすることを申し出で、休日(オフ)には球団の営業にボランティア(無償)で尽力するくらいの譲歩があって当然だろう、と思う部分はありますが(ここまでやれば、球団経営の赤字はかなりまかなえるでしょう)、他方、野球の経営陣は、閉鎖的な空間で、甘い汁をすっていただけ、という批判もまぬがれないように思います。

何にしても、日本の経済を左右する産業です、プロ野球というのは。そこが真剣に議論されることは歓迎。しばらくは雑談ネタとしては、プロ野球の優勝の行方よりも面白いかもしれません。


2004/08/30/(Mon) 公平と依頼者の利益と

業務上の雑談に書くべきことか…ちょうど境界のネタですが、雑談的要素が強いのでこちらに。

相談業務で、「なんとかしてあげたい」と思うものの、一歩引いて公平の立場にたつと、その要求はいくらなんでも言い過ぎでしょう、と思う案件がときどきあります。虚偽の事実を作って許可申請、なんていうのは言うまでもなく、解釈次第で、あるいは人道的にはもっともだけど、現在の制度的には…という相談案件もしばしばあります。

開業以来、相続と離婚の相談はなぜか数多く受けますが、親の面倒を一人で見ていた方の寄与分の評価とか、経済力のない男性と離婚する場合の養育費とか(ただ、これは逆もしかり…というのは時代を反映しています)。

最近つくづく感じるのは、「消費者保護」を強調しすぎる消費者保護立法の数々。いくつか、あきらかに消費者が事実を捏造して、無理やりクーリングオフ、消費者契約法上の取り消し等を求めていると思う事案にぶつかりました。だけど、最近の行政の対応としては、捏造を業者の方が証明しないかぎり契約解除も認めるし、さらには業者に対して行政指導、営業停止の処分もあるようです。

そんな中、先の法改正は、消費者保護から、消費者の自立に向かった、と評価されています。

法制度は、どちらかに偏ってはいけない、と改めて思う場面です。過渡期的な状況の中では極端な法制度は創設されることはあるでしょうが、それが恒久的に続いては、やはり公平を失することになります。
海部政権をきっかけに、生産者・製造者から消費者に法制度の目はむいたとされ、それ自体は私は歓迎しますが、極端な消費者保護は保険のコストなどを通じて商品価格にはねかえる部分もあり、そろそろ日本も調整が必要なのではないかと思います。

生産者vs消費者は、そんなことを感じさせる状態になっていますが、政治家と国民の構図は、あいかわらず。民主主義の限界ですね…。金持ちが政治家になる、政治家を応援できる=金持ちのための政治が正統化(正当化でないことが大事)される…は、未来永劫かわらないのでしょうか。


2004/08/15/(Sun) お盆・原爆・終戦記念日

8月は、仕事が暇です。行政書士の仕事は、どちらかというと、何かを始めるときにお手伝いする仕事だけに、お盆休みがドーンと構えている8月は、結果的に二・八になります(ちなみに2月も比較的私の事務所は暇です。ただし、隔年)。

そんな8月の上旬は、やはり、今の立場、位置をじっくり考えるときになります。結果として、好むと好まざるに関わらず…。

お盆という、現代においては先祖を思い返すほとんど唯一機会があり、歴史上もかくことのできない原爆の日(広島、長崎)、終戦記念日…。

合唱を趣味としてからは、一昔前の邦人合唱曲は、どこか反戦・反核の色が出ていることを感じ、あらためてこの重要性を感じたものでした。所属の高崎コスモス合唱団で初めて取り組んだ組曲「土の歌」もしかり。今年はどーーーーしても仕事の都合でいけなかったものの、1999年より毎年足を運んでいた東京混声合唱団の「八月のまつり」の指定席「原爆小景」や「死んだ男の残したものは」etc.。そんな中で、昨年東京混声合唱団と共演させていただいて歌った「蜜蜂と鯨たちに捧げる譚詩」の強いメッセージ…その中での、同時多発テロにイラク戦争…。

日本は不景気というけれど、景気を語れることは幸せなのかもしれない。
が、「下」、「最悪」を見たり比較して安心することは、かえってその「最悪」にいる人たちに対して真摯な姿勢とはいえないのではないか、と最近思います。むしろ与えていただいた環境を十分に活用して、分配していかなければ…。

人が人を殺すことが正当化できるのか…(私は死刑反対論者ですが)。戦争という究極の状態でも、私個人はそれはできません。

今年の8月上旬は、そんなことを振り返るひとときでした。


2004/07/17/(Sat) 2名の訃報に思う

大学時代、一般教養(でありながら、事実上法学部学生専用)の「政治学」の担当教授であり、大学の諸活動でお世話にもなった、政治学者の高畠先生がお亡くなりになりました。大学にあった「寄付講座委員会」に所属し、そこでもお世話になりましたが、委員会でも氏は本当に「天才」を感じさせる「雑談」を感じることがたびたび。採点が厳しいので一般学生からはあまり人気ではなかったようですが、「テスト抜きにすれば、良い講義=話しも面白いし、わかりやすいという意味で)という評判が一般的だったように思います。惜しい方がなくなったな、と、新聞を見て感じました。

その数日後、東大名誉教授の平野龍一先生の訃報がやはり新聞に…。もはや、私の学生時代には、平野理論は過去の体系的な雰囲気があり、もう一昔前の「団藤vs平野」的な雰囲気はなくなっていましたが、私自身は論文や書籍レベルでは、平野教授のお考えというのは共感を覚えることが多く、刑事法の分野のみならず、ものごとの論理立ての順序や手法は、今も影響を受けていると思います。氏の「刑事訴訟法の基礎理論」のまえがきは、今でも忘れられません。3年修士に籍をおき、現在、法律実務家の最外郭部分?にいる私ですが、その理論と実務の関係を考える上で、この「まえがき」は、さまざまなヒントをあたえてくれます。

また、あのころみたいな勉強をできるような身分に早くなりたい! と思う反面、過去の人になりつつあるなー、とこんなところで感じるのでした。


2004/07/12/(Mon) ボソッ

二大政党化が進んだそうですねー。

国民にとって、2つに一つになったというわけで。
2つのどっちをとっても期待できないとすると、世も末、絶望、ってことですかねー。

ボソッという独り言が本音なのです(^^)。

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