拉致被害者の…うーん、最近記憶力が…今、旦那と娘さんたちとあっている方。
決してあの方への扱いが手厚すぎるとか、贅沢だ、とはいいません。 ただ、拉致被害者って、私の目には、「平時に国家によって誘拐された人」という認識しかありません。
戦時に誘拐等で行方不明になった方も、その苦労とかストレスは同じくらいあったのではないか…。日本が加害者だったとされる中国や韓国の捕虜の方々はこれにあたると思いますが。 平時に、国家以外に誘拐された方。あるいは、誘拐と同等に長期監禁された被害者(一昨年、新潟でありましたよね…)。たまたま生きて見つかった、という区別をするならば、誘拐によって亡くなった方…高崎の最近時効となった男の子もそうです。
どこに区別があるのか、私は正直わかりません。 拉致被害者と同じくらいクローズアップされて、保護されてしかるべきではないかと最近の報道を見ていると思います。
犯罪被害者には、加害者への応報感情を満たすこと以外のフォローを充実させるべきだと思うのは、私の持論ですが(逆にいうと、加害者の処遇を伝えるとか、少年だった場合に名前を公表して加害者の応報感情を満たす以外の方法で、きちんとフォローはするべきだ、という意味)、そういう目で見れば、誘拐以外の被害者にも同じくらい手厚い保護、支援がないままにこういう状況をみると、結論的には「拉致被害者だけが…」という気持ちが、少なくとも私は生じてしまいます。
コンクリート詰事件の少年が、再犯をしたと、当時実名報道を押し切った出版社が自慢げにしているみたいですが。逆に、あそこで実名報道したから再犯に繋がってしまったという見方はできないものでしょうか。ラベリングの効果があったかもしれないし、仮に、更正されなかったとしても、更正された少年も大勢いる。であれば、あの人は再犯すると確信できる状態でなかった限り、実名報道したのは、おもしろおかしくかき立てたとしか私は思えません。
19Cまで、国家による制圧を抑止する手段として、さまざまな現在の政治、国家体制が考案されました。国家が唯一の強大な力を「発揮しうる団体」だったからだと私は理解していますが、21Cは、マスコミという団体が同じような位置づけになるのでは…と最近は思っています。もちろん、表現の自由はあります。知る権利もあります。ただ、表現の自由は人権の序列で高位に位置づけられ、それを操作しうる立場の権力は、やはりより高度な自制が必要であり、公平な監視ができるシステムが必要な気がします。
最近テレビをみながらの雑談です。
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