最近の私的の雑感

不定期・不確実の、妄想・幻想・感想 etc.

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2004/07/10/(Sat) かなり偏った雑談

拉致被害者の…うーん、最近記憶力が…今、旦那と娘さんたちとあっている方。

決してあの方への扱いが手厚すぎるとか、贅沢だ、とはいいません。
ただ、拉致被害者って、私の目には、「平時に国家によって誘拐された人」という認識しかありません。

戦時に誘拐等で行方不明になった方も、その苦労とかストレスは同じくらいあったのではないか…。日本が加害者だったとされる中国や韓国の捕虜の方々はこれにあたると思いますが。
平時に、国家以外に誘拐された方。あるいは、誘拐と同等に長期監禁された被害者(一昨年、新潟でありましたよね…)。たまたま生きて見つかった、という区別をするならば、誘拐によって亡くなった方…高崎の最近時効となった男の子もそうです。

どこに区別があるのか、私は正直わかりません。
拉致被害者と同じくらいクローズアップされて、保護されてしかるべきではないかと最近の報道を見ていると思います。

犯罪被害者には、加害者への応報感情を満たすこと以外のフォローを充実させるべきだと思うのは、私の持論ですが(逆にいうと、加害者の処遇を伝えるとか、少年だった場合に名前を公表して加害者の応報感情を満たす以外の方法で、きちんとフォローはするべきだ、という意味)、そういう目で見れば、誘拐以外の被害者にも同じくらい手厚い保護、支援がないままにこういう状況をみると、結論的には「拉致被害者だけが…」という気持ちが、少なくとも私は生じてしまいます。

コンクリート詰事件の少年が、再犯をしたと、当時実名報道を押し切った出版社が自慢げにしているみたいですが。逆に、あそこで実名報道したから再犯に繋がってしまったという見方はできないものでしょうか。ラベリングの効果があったかもしれないし、仮に、更正されなかったとしても、更正された少年も大勢いる。であれば、あの人は再犯すると確信できる状態でなかった限り、実名報道したのは、おもしろおかしくかき立てたとしか私は思えません。

19Cまで、国家による制圧を抑止する手段として、さまざまな現在の政治、国家体制が考案されました。国家が唯一の強大な力を「発揮しうる団体」だったからだと私は理解していますが、21Cは、マスコミという団体が同じような位置づけになるのでは…と最近は思っています。もちろん、表現の自由はあります。知る権利もあります。ただ、表現の自由は人権の序列で高位に位置づけられ、それを操作しうる立場の権力は、やはりより高度な自制が必要であり、公平な監視ができるシステムが必要な気がします。

最近テレビをみながらの雑談です。


2004/06/27/(Sun) 拉致被害者のお子さんの…

先週でしょうか。拉致被害者のお子さんが、国会中継を見て驚いていらしたとか。

こういうことまで報道されるんだ、ということにだけ驚きと関心をもってくれたのであれば良いのですが、乱闘あり牛歩あり野次あり…に関心されたのだとすると、日本は民主的な国ですとは恥ずかしくていえませんね。

台湾の国会の乱闘をみて「あれで民主主義といえるのだろうか」と笑って見ていたこと以上(以下)の状態なのですから、話す言葉はございません…。

先の行政書士会の総会。これも民主的に、と毎年いわれながら、今年は昨今の国会に負けず劣らずだったようで…。

ようするに、民主主義とか民主的、という言葉も考えも日本には染みついていないということですね。

いや、「日本には」なのでしょうか。
世界を見ても、どうも虚偽の事実を取り上げてそれを根拠にし、反対勢力のスキャンダルばかりをつついての強行採決。力を背景に私に反対したらどうなるかわかっているだろうな、的な雰囲気をかもしだした大国の戦争開始。日本の国会と違うのは、乱闘と牛歩がないことだけで、やっていることはかわらない、と思いますねー。

話し合いで決めることが「民主的」というのであれば当てはまりませんが、話し合いをする人を選択する方法の妥当性も、制度を評価する上で問われるならば、投票率が現状の日本は、もはや制度そのものが批判されて仕方ない状態。
いや、国連だって、常任理事国の選択の仕方そのものが「民主的」かといえば、私は疑問に思わざるをえません。人類が長い歴史で失敗してきた、代謝のない執行部態勢、入退の(少なくとも機会の)平等がないような制度では、いつかは暴君が生まれてくるものでしょう。チェック、監督権限までその暴君がもっているのですからこれはますます必至。

「戦争を起こさない制度が一番良い政治制度」だと私は考えています。
イラクを民主国家に、と、民主主義をとっているとされる国から聞こえてきますが、上記のように考えると、そんなにいい制度なのかな、と最近疑問に感じてしまいます。


2004/06/03/(Thu)21:10 ついでにもう一つ…

道交法改正がほぼ決まりました。
携帯電話の強化は、基本的には賛成ですが、一つだけ不安が。司法警察員が確認しただけでよい、ということ。
これは、今となっては昔ですが、300mも先の一時停止をした・しないで、一時停止義務違反を問われた知人のことがあります。話しの経緯で、正直、警察の方は、はっきりと黙視できたとは断定できないと、最後は白状したそうです。はっきりいって、暇つぶしだった! というわけです。
携帯電話を使用したことを、警察(司法警察員)が見ただけで罰金。今の警察にそこまで権限をもたせていいのだろうか。私の場合、時計がないために、携帯電話を開くことが多々あります。でも、その瞬間を見られたら、携帯電話を使用した、ととして、有無もいわさず罰金5万となるのかと思うと、不安でなりません(ちなみに、信号などで停車中にこの動作は行います)。

他方で2種類のハンズフリーシステムを導入しています。ただ、音があまりにも悪い。前回の改正から四年がたっているわけですから、この分野の技術進歩がない、もっといいたいのは、自動車メーカーが、ハンズフリーを標準仕様にしなかったことそれ自体が、相当な怠慢だと思います。法律を強化するならば、普通乗用車に、ハンズフリーを義務づける(シートベルトが必ずついているのと同様に)ことの方がよほど実効性があったように思います。ちなみに、私は4月に車を買い換えました。そのときにメーカーにきいたら、30万円超のカーナビの機能にハンズフリーがあるとか…。20世紀に間に合ったと、ハイブリッドカーを出すメーカーの姿勢と思うと、笑わずにはいられません! 環境問題はセールスになるが、道交法違反はならないから、超高級オプションに申し訳なさそうにつけただけ、としかいいようがない対応です。

せめて、来月から発売される特別仕様車や、マイナーチェンジモデルからは、ハンズフリーシステムが選べるようにしてほしいと思う次第です。いや、既存発売車にも、格安で追加オプションとしてとりつけできるようにするくらいしてほしいと思いますねー…過去最高利益をあげたのだから!

せめて、マスコミが大々的にこの報道をして、車の中では、このような対応のせいで音質も悪く、使い勝手も悪いハンズフリーを使わざるを得ないことを広報して欲しいところです。「はい、小山です。今ハンズフリーで受けているので、音が悪いですが、ご了承ください」と言って、車を道に寄せることが、相手にとっても普通に思えるくらいに、大々的に宣伝して欲しいところです。


2004/06/03/(Thu)20:57 代行の値上げ

今年の4月から代行運転車の「高崎代行協会」加入会社の値上げが実施されました。

値上げ前、協会からの御案内の文書を頂きましたが、どれもなっとくできないものばかり。この点、料金が認可制でないことが、かえってマイナスになっているような気がします。

もともと距離単価が高い(前橋と比べて)高崎ですが、今回の最大の「改悪」は、初乗りが4kmとなったこと。4kmが最低料金となったわけです。私の場合、今まで代行料金を節約する意味でも、なるべく近いところで使っていましたが、4月からは4km以下は、一律同じ、というわけです。

代行業が本当に経営が苦しいならば、やむをえません。しかし、代行業そのものが、暴力団の収益に繋がっているのは明らか。そして、代行運転のアルバイトをしている方を何名か複数知っていますが、どう考えても、運転者そのものの収益には繋がっていない…。

年金もさることながら、暴力団撲滅をいいながら、その資金源を支援するような形に結果としてなっている現状。代行運転手が一致団結して一斉にやめるとか、利用ものが利用拒否をするとか、具体的な行動をとらないと、この構造は崩れませんね…。


2004/05/10/(Mon) 痴漢冤罪判決!

が、またあったようです。今回の事件は、当初から否定的な証言があったらしいので、警察捜査のあり方も強く問われるべきだと感じます。

20人の犯罪者を逃しても、1人の無辜の者を有罪にしてはいけない

というのが、罪刑法定主義の根底にあると思います。ただ、政治的な意味合い、捜査能力と犯罪の凶悪さ、数によって、「20人」は上下するのが現実かな…というのが感想です。

電車内の痴漢は、その意味で、20:1 ではなく、数百:1 くらいでの冤罪だとは思いますが、他の犯罪とくらべて、割合が多い傾向であるのは感じざるをえません。なによりも、「痴漢に間違えられないために」という趣旨の雑誌特集や本、テレビのコーナーができてしまうのは、冤罪が多いことを象徴しているように思います。(一部を私も賛同し、満員電車では女性に近いところに乗らないなど、実行していますが、それであえていっそう混んでいる電車にのったりするので、これこそ、不当に権利を制限されていると素直に思います)。

というのも、私も、痴漢に間違えられたことが実はあります。高校生のときでしたが、電車の中で宿題をやっていて、教科書やノートを出し入れするために頻繁に鞄を開け閉めしたのですが、たまたま、鞄の紐の端が前に座っていたミニスカートの女性の膝にぶつかったりしたことがあったようです。そのあと、宿題が終わったので、窓に肘をついて寝ていたのですが、それが、腕で目を隠して、隙間から"生足"とスカートの中をのぞいていた、という主張をされたのでした。(なお、ロングシートの電車ではなく、四人掛ボックスシートの列車での話しです)。

ただ、相手の女性は駅員に訴えたり、警察に訴えたりせず、その場で抗議しただけでしたから、「冤罪」ではないかもしれませんが、もはや、相手次第という状況にあったのは間違いありません。痴漢の冤罪の話しを聞くと、あのとき警察にいわれていたらどうなっただろう…と思い出さずにはいられません。

女性重視の社会情勢です。女性に有利な発言・政策をとっていれば、票を稼げる、というのが、どうもある気がしてなりませんし、それを利用している女性団体も決してないとはいえないと思います。ただ、本当の女性参画社会は、こういう区別もなくなった社会だと思いますし、他方、男女の性差による区別をむしろ認めて認識しあう社会だと私は思っています。現在は、男女の性差を無視して、区別すること自体がいけない、みたいな論調なのは、その意味で、違和感を覚えます。

痴漢冤罪についても、疑わしくとも証拠が不十分ならば罰しないとするのが、むしろ、本当の意味の男女平等だと私は思います。じゃあ、被害にあった女性の立場は? という意見もあるかもしれませんが、罰することと被害者の精神的ケアは区別して考えないと、無辜の人を罰することにつながり兼ねません。

一方で、今回の冤罪判決の被害者を非難するような報道がなされないことを祈ります。彼女は彼女で間違ったのですし、おかれていた立場から間違えたことは批判されるべきではないと思いますので。




2004/05/04/(Tue) 昨日は憲法記念日

法律に関することは、「業務上の…」に書くことを基本にしていますが、憲法問題はあまりにも私的な見解が入るので、こちらです。

昨日は憲法記念日。理由まで述べると長くなるし、異論のある方からのスルドイ反論もいただいてしまうので(私はこの分野は、私見としてはもっているものの、それを他人に説得しようとは思っていません。いろいろな考えの方がいて当然と思うので)、理由はふれませんが、憲法改正は不要(すくなくとも9条に関しては)、自衛隊は存在自体が違憲、ましてイラク派兵なんて…というのが、基本的な考え方です。

ここには、上記のとおり触れていない理由がもちろんあるわけですが、それは、善し悪しはわかりませんが、自分なりに理想だと思う「日本のあり方」があるからこの結論になります。

昨日の憲法記念日の新聞各社の社説。あるいはテレビのコメンテーターの意見。さまざま分かれていて、ある程度の「分類・整理(…改憲派・護憲派という単純な分類も含めて)」をどこもしていたようですが、その中で、「改憲論を論じる前に、日本がまずどうなりたいかを確実にするべきで、それをベースとして必要ならば憲法を改正するかしないかを論じるのでは」というコメントがいくつかありました。

これには強く賛成します。いや、したい、と思いました。

「どうしたい」の前に憲法ありきでは? という見解もあるとは思いますが、現状はあまりにもいろいろな考え方が乱立していて、それらを最大公約数のように満たす憲法などありえないと感じるだけに、こう思うのです。

9条、憲法3章へのプライバシー権と環境権の明示あたりが、ホットな話題のようですが、他にも先の文春の問題一つとっても、古典的な権利が、言葉という外形はかわらないものの、実・質が変化して、旧来の保護あるいは制限では他の権利とのバランスがはかれなくなっているのも間違いありません。

そんな中、改憲するか否か、どのように解釈するか否かは学者にまかせるとして、一実務家、一国民は何をしていれば良いか…。

そう、憲法記念日に、この側面のイベントや見解がかけていたことも感じます。

もっと、国民生活の現場、直面している状態からの発言が聞こえてくることが大事だし、それが、「日本をどうしたいか」につながり、学者のみなさんの好きな憲法解釈・改憲論に結局はつながる気がします。

とはいえ…そのまえに、憲法って、振り返ってみると、あまりにも身近ではないですよね…イメージとして。法律関連職の国家資格だって、憲法の出題があるのは司法試験と行政書士試験くらいですから…。


2004/04/19/(Mon) イラク人質事件の世論

根本的に、以前に書いたように、戦地ジャーナリストが戦地にいくのも、そこで死ぬのも勝手だと思います。が…。

今回は、なぜこんな加熱したのでしょう。人質家族があんなにあやまるのは、どう考えても不自然に思えてなりません。身内が危険にさらされたら、それが自己責任論の下であろうとなかろうと、感情的に「助けてください」というのは、身内としてはむしろ自然だと私は思います。それを冷めて、「自分の責任です。死んでも仕方ないことを息子(娘)はしていました」なんて、親御さんが発言したら、不気味です。それこそ、「血が通っているのか」と思いたくなる…。

「イラクに残りたい」発言も、日本の世論がどうなっているのかをまだわかっていない段階での発言です。もちろん、「(平均より)いい人」は、それを予測して、まずはお詫びと感謝、そして十分に反省して…となるかもしれませんが、それは「考えられる特別にいい人」でしょう。それを批判している大多数の方が、もし、同じ思いでイラクにいき、同じ立場にたったら、この発言をしないと言い切れるでしょうか…。

政府の発言も、渡航退避を勧告していた。憲法上、渡航禁止はできない、と言っていますが、憲法解釈として、具体的差し迫った緊急性のある危険がある状態ならば、まさに、超法規的措置としては、渡航禁止もできることでしょう。憲法9条がありながら自衛隊が違憲でなく、後方支援ができるとする解釈よりも、ずっと文理解釈に近い解釈です。ましてや、山の遭難と同じだなんて発言、信じられない。少なくとも(「少なくとも」です)、山は、第三者の関与はありません。今回は、第三者がいるからこそ、誘拐なのですから、同じとする論理は信じられない…。

と、一つ一つは、私の意見にすぎません。

ただ、思うことは、何もわからない状態で、論じすぎる、ということ。それと、言葉の使い方の失敗が連鎖して、難しくしているのでは? ということです。

上記を報道しているマスコミのみなさん…具体的に政府が何をしたのか、具体的に相手方からどんな要求があったのか、わかった上での報道でしょうか? そこには推測があり、推測には政治的な圧力がいくらでも関与することができ、報道を100%信じる国民性の日本人はそれを前提に世論が作られていく…。

一方、政府も「自己責任」などと、意味のわからない責任回避の抗弁をするべきでないし(するとしても、時期が悪い。もっとも、政権がこのままではあやうくなるときに「面倒な事件がおきてしまった」という雰囲気が滲み出ていますから仕方ないですが。その意味で小泉さんは運がいい。無傷で5人が開放されたのですから)、一方の5人も世論をある程度予測して控えめに発言するチャンスはあっただろうし、マスコミも「何もわかっていません」と強調した上で報道する機会はあったはず(これを助長しているのが数日前に書いた、なにも勉強していないコメンテーターの存在)。それがきちんとなされていたならば、こんなに加熱しなかったのでは…というのが、私の「感想」です。

そして、あえていうならは3人が少しでもけがして発見されれば、むしろ同情の方が世論として成立していたでしょう…。世論なんてそんなもんです。

まとまりなくなりましたが、わからないことをわからないと正直にいうことが、一番大切なのかな、と思うのでした。

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